前号までに書いた「学級集団の段階」について。
学級集団の段階の違い、それによって適切な指導方法が変わることは前々回で書いた。
また、その段階の見抜き方についは前回書いた。
今回は、段階の上げ方についてである。
特に一番多いと思われる、2段階の状態から3段階以降へ上がるために絞って書く。
一応復習しておくと、学級の段階とは次のようなものである。
教師の指導性も子どもの自由度も低い=「学級開き」の第1段階
教師の指導性が高く、子どもの自由度は低い=「一斉指導」の第2段階
教師の指導性も子どもの自由度も高い=「ペア・グループ活動」の第3段階
教師の指導性は低く子どもの自由度が高い=「自治的活動」の第4段階
引用文献:『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』 赤坂真二著 明治図書
一斉指導は成り立つが、基本が指示待ちで、子どもたちに任せるとうまくいかない。
ペアトークやグループ活動を方法として採用してはいるが、実質的に機能していない。
この辺りの段階から次にいけないというのが、最も多くの学級の悩みどころではないかと思われる。
ここからの脱し方だが、先に言うと「これをすればうまくいく!」という単一の必殺技はない。
代わりに、様々な方面からの有効なアプローチ方法なら示せる。
理念的な話を先にすると、2段階から3段階へは、やり方以上に、在り方の変容である。
子どもが、何のために学校に来ているのかという、その学習観の変容である。
第2段階までは、すべて自分のためであり、知識注入と技能獲得のための正解を覚える記憶力が重要で、本質的に思考力は必要ない。
従って、機械的学習のパターン記憶さえ強ければ、思考力は全くなくともテストではいつも100点、ということもあり得る。
直接教授してくれる存在さえいれば、それ以外の他者も必要ないため、思いやり等も基本的には必要ない。
(自己防衛のための処世術は必要である。例えば集団内で攻撃されないために目立つことや余計なことをしないこと等である。)
第3段階は、他者との関係の上で学ぶという意識に入るため、何がこの場合は良いのかという、思考力が決定的に重要になる。
指導者によって一応の方向は示されるものの、仲間と協働しないと解決できないため、人間関係の機微も学ぶことになる。
能力は高いが人間関係づくりが下手な人、人間性は明るいが丁寧さに欠く人、自らは前に出ないがまとめるのが上手い人。
それらの相互作用で学ぼうというのが第3段階である。
この段階では、個々のメンバーの長所の活用と短所のカバー(あるいは短所の無視)が重要になる。
つまり、自分の能力の社会への活用、他者貢献のために学ぶという意識に入る。
文科省の示すキャリア教育の理念とも通じる段階である。
ちなみにこれは、教える側と教わる側、両方に言える。
第2段階であれば、教える側の意識は、とにかく落伍者を出さないこと、目的地に辿り着くこと。
「護送船団方式」と呼ばれるものになり、教わる側は保護監督下の受益者であり、子ども同士は互恵関係にない。
(ちなみに、この方式では早く前へ行きすぎる者へは対応できないため、足踏みさせて待たせることになる。)
一方で第3段階からは、意識のステージが一変する。
教える側がまだ全体コントロールの手綱を完全には手放せない点は同じだが、子どもへの信頼感がある。
子ども同士は、学校という場が仲間同士の協働を学ぶ場であると認識し、相互に高め合う互恵関係を築こうとする。
第2段階が利己ベースの自己権益追求に対し、第3段階は他者信頼ベースの相互利益追求となる。
利己から利他への変容ステップともいえる。
(第3段階ではまだ指導者に手綱を握られてコントロールされているので、完全な利他とはいえない。)
では、理念ではなく具体として何をしていけばよいか。
授業の方法だが、形の上でも当然ペア・グループ活動を中心としたものにする必要がある。
時々気が向いた時にやるのではなく、基本をそちらに置く。
今は時勢上難しいが、全ての机を黒板に向けたスクール型から脱する必要もある。
ただし、人間関係が悪いのにこれをやるのは辛い。
意地悪する相手とペアを組みたくない、やたら攻撃的な人と同じグループになりたくないと考えるのは至極当然である。
(これは、大人の社会であっても、同様なはずである。)
つまりは、信頼ベースなのである。
だから、相互の信頼関係を構築するために、日常的にやるべきことが山ほどある。
例えば、掃除からのアプローチ。
掃除をどのように行うか。
ただの当番、作業として行うのか。
自分を磨く場として意識できるよう、掃除の意義から伝えているか。
また、掃除を受動的に「やらされる」のか、自主的に「やるべきだからやる」のか、主体的に「やりたくてやる」のか。
あるいは、「ここをきれいにして、みんなに気持ちよく使ってもらおう」という他者貢献の意識があるのか。
掃除の最中も、仲間と協働するような仕組みになっているか、問題解決の場として指導しているか。
第3段階へのステップアップのためには、毎日の掃除のことだけでもここに書ききれないほど、山ほどやることがある。
例えばものを配る時でも、相手が気持ちよく受け取れる、ということを常に考えているか。
放り投げるように渡したり、顔も向けずに渡したりしていないか。
「ありがとう」の言葉が自然に出るようにしているか。
その意義まで語っているか。
こういう些細な当たり前のことや礼儀の類を、理想でいえば小学校1年生の頃から卒業までずっとするのである。
呼吸をするように、自然にする。
姿勢が悪かったら「背中をすっと伸ばすと、気持ちがいいし、やる気も出るのですよ」と朗らかに伝え続ける。
この「身体と心は連動する」ということを事あるごとに教える。
良い仕草や良い言葉が、良い人間性を育むことを信じて実行する。
こういう「そんな面倒なこと」を常にし続けて、初めて教育は成立する。
かの森信三先生が躾の三原則として示されたのも
「挨拶」
「返事」
「履物を揃える」
という、一見大したことのなさそうなものばかりである。
ただし、これを「いつでも」例外なくやり続ける、ということに、人間の芯を育てる教育の在り方、本質が示されているのである。
話が逸れているようだが、実は逸れていない。
結局、第3段階が本当に成立するには、この人間性を育むという点が決定的に重要だからである。
哲学者カントの有名な言葉
「人は人によって人となる」
の通りである。
これは
「生物種としてのヒトは、他者と関わる教育によって、初めて人間となる」
という意味である。
たくさんの人の間で学んでこそ、初めて人間になっていく。
第2段階が教師という単一の人からの教え、注入であるのに対し、第3段階は複数の人の間で自ら学ぶ、人間の教育である。
第3段階で十分に経験を積めば、やがて自然と指導者を離れ、自分で新たなものを求める第4段階へ移っていく。
「これは、人間の教育になっているか。」
学校で行っている全ての活動について、この視点をもつことで、初めて第3段階が成り立っていくと考える次第である。
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