「頭のよさ」に関する教育観について。
子どもたちの「〇〇さんは頭がいい」という認識を見ると、偏りが見られる。
単純に、テストの点数で見ていることがかなりある。
この見方は、子どもに限らないかもしれない。
テストで点数が取れる。
これについては、大抵は「再生能力」に左右される。
要は、お手本通りに再生できるかどうかである。
レコーディング機能のあるものや、CDプレーヤーやDVDプレーヤーなどは、この面において最強である。
漢字テストはその最たるものであるし、算数、数学のテストのほとんどはそれである。
だから、取り組んだ回数がものをいう。
多く問題に取り組んでいる方が、再生能力は高まる。
あらゆる「習い事」も、読んで字のごとく、やはりこれである。
習うのだから、倣うこと、模倣からである。
お手本を見て、型を覚える。
そのために、同じ練習を繰り返し繰り返し行っていく。
単純作業である。
つまりは、小学校や中学校段階で周りから「頭がいい」昔なら「神童」と評されるには、いかに繰り返すことができるかである。
当たり前だが、単純にそれを好きでやっている子どもが最強になる。
あるいは、ひたすら単純作業を淡々と続けらえる子どもも、この能力は強化される。
親の命令に従順な場合、親の願いを読んでしまう場合も、しばらくはもつ。
要は、あらゆる学習の第一段階をクリアするには、量をこなす必要がある。
この第一段階クリアの状態が、小中学校時代に「頭がいい」と評される条件である。
だから、テスト自体には意味がある。
テスト、試合、本番があるからこそ、そこに向けてクリアしようと意欲も湧く。
一つの能力を高める側面があるといえる。
再生能力が高いというのは、それはそれで大切である。
特に、決まった動きが必要になる仕事やスポーツなどでは、最も重要な力である。
しかし、今の時代に求められている本質的な賢さというのは、そこだけではない。
端的に言って、問題を自分で発見し、解決する能力である。
問題を発見するとは、気付けること。
気付けるかどうかというのが、勝負の分かれ目である。
例えば日常生活の中でも、問題があるのに気づいていないということはかなり多い。
一旦問題に気付いて課題設定できれば、解決には集団の力で向かうことができる。
課題を細分化し、役割分担する、といったチームリーダー的な力が求められる。
これは、再生能力とは違う。
社会に出てから「頭がいい」と評される人は、こちらの能力の高い人である。
(依頼した課題をさっと上手に解決できる人は「腕がいい」と評される。)
学校教育に、高い再生能力が求められた高度経済成長期。
それらが通用しなくなってきたという反省に立ち、現在の学校教育はその在り方を大きく変えようとしている。
文科省の指針自体は正しいはずなのに、具体が追い付いていない状況が続く。
せめて小中学校現場では、テストの点数で子どもの頭の良し悪しが評されるような風潮をやめにしていきたい。
テストの点数は、あくまで再生能力という一つの側面である。
テスト中心で子どもが、人間が評価されるような学校教育を、どうにか変えていきたいと考える次第である。
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