2020年9月12日土曜日

壊してはいけません

 平時の所感を記す。


よく、ヒーローものなどで、戦いの最中に建物が壊れる。

あるいは、悪者一人に対し、力を合わせて全員で総攻撃する。

または、悪者から逃げるために、街中をバイクや車で逆走してすっ飛ばしていくシーンがある。


幼心に「中のビルの人は大丈夫なのか」「そんなにみんなでよってたかって一人を攻撃していいのか」と思っていた。

大人になってからも変わらず、「今のシーンでは、主人公は助かったけど、事故が起きて誰か死んだのでないか」とか思っていた。

またファンタジーを見ても「さっさと最終魔法使えばいいのに」「別に空飛べばいいがな」と思っていた。


こういうことを他人に話すと「お話だからいい」「メルヘンなんだからいい」といって、大変嫌がられた。

それ以来、思っても迂闊なことは口外しないようにしている。


しかし、私は幼い頃から、真剣に、これは結構問題なのではないかと思っている。

「正義だからいい」とか「素敵だからいい」とかの価値観は、見るべきものを見えなくする。

どんな理由にせよ、人の大事なものを壊してはいけないと思っている。


突き詰めると、地上戦で一人ずつ撃つよりも、原爆で大量殺人の方が罪や痛みを感じない、というのは、ここと関連すると思う。

個々の死を見えにくくしているだけで、「正義の原爆」も「聖戦によるテロ」もありえない。

どんな理由をつけたにせよ、殺人であり、人が現実に死んでいるのである。


「正義」や「正しさ」の概念は、特にこの目を曇らせる。

以前に紹介したタモリさんの「loveがなければpeace」の言葉の通りである。

https://www.mag2.com/p/news/260236


「私」の大切な「我が子」のためなら、他の子も周りのすべてを犠牲にしても構わない。

少し拡張するとこれが「会社」という人もいる。

自社の利益のためなら、犠牲も構わない。

どんどん大きくなると、国になる。

「我が国のため」なら、地球の一部さえ破壊しても構わない。


「私」を完全に捨て去ることができない以上、正義は、常に個人内の独りよがりである。

あらゆる宗教の過酷な修行が「滅私」を目指すことも、これと関連しているように思う。

「私」と渇望する肉体とを切り離したいのである。


話を戻す。


アニメ、漫画、スポーツ選手や芸能人、アイドル等、人気のあるものの人々へ与える影響は絶大である。

ただ、これらから発せられる情報が、どんな意図からなのかを読む必要がある。

これは、現代に必須のメディアリテラシーの一つである。


残念ながら、多くは利益ねらいの発信である。

人気を博すことがそのまま経済的な効果につながる。

心理学でいう「ハロー効果」で、その人気者に発信させれば、それがあたかも素晴らしいもののように思える。


だから、商品のCMに人気女優や俳優を使うのは常套手段である。

(そしてその商品の価格の内訳の実態は、原材料費や開発費ではなく、CM等の広告料がほとんどである。

よって莫大な広告料のかかる「今をときめく人気芸能人」やアニメキャラ等を宣伝に使っている商品は、すぐに飛びつかず、よくよくもの自体を見て検討した方がよい。)


特に、人気漫画が幼い子どもたちに与える影響力は絶大である。

正義とは何かも刷り込まれる。

何が「かっこいい」「素敵」なのかも、刷り込まれる。

よくよく見てみると、それにはかなりの理不尽がまかり通っているのだが、子どもが気付くはずはない。

ドラマチックに仕立て上げれば、それらはすべて正義である。


自分が良いと思っているものが、本質的に良いかは、かなり怪しい。

刷り込まれた偏った価値観というのは、なかなかに強力で、自分では気付けないからである。


本質に気付ける感性をもてるようにしたい。

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