全国各地で親と子どもの悲痛な叫びが聞こえる、休校期間の課題への対応について。
全国に、休校中の課題の山の前に立ち尽くしている子どもがたくさんいる。
夏休みを思い浮かべれば、容易に想像がつく話である。
理屈の上では、あくまで休校期間であって、夏休みとは違う。
しかし、子どもの意識の上では「先延ばし」の対象として同一である。
家にいて、自由裁量権があって、計画的に課題に取り組んでいくという点は、全く同じである。
ただ、必要なのは、そこができる子どもがどれぐらいいるのかという視点である。
多くの子どもが通信教材を続けられないという実情を見ると、この「自律」はなかなかに難しいようである。
そこで問題となるのが、親の対応。
文科省のH.P.↓には、次のように書かれている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1298449.htm
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教育基本法(平成18年法律第120号)
(家庭教育)
第10条 父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
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要は、ここに沿って学校も課題を出しているということである。
一方保護者は「子の教育について第一義的責任を有する」と書かれている。
これはプレッシャーである。
どうすべきか。
一つだけ言えるとしたら
「責任がある」ということと「子どもの課題」ということは、別問題ということである。
学校の宿題は、あくまで、子どもにとっての「人生の課題」なのである。
親の人生の課題ではない。
それをあたかも親にとっての課題であるかのように捉えて、あれこれ手出し口出しすべきものではない。
それは、成長の機会を奪っているといえる。
先の教育基本法にも書かれているように、生活習慣云々も本質は「自立心の育成」と「心身の調和のとれた発達」なのである。
適切な寝食の世話をし、温かい愛情で見守ってきたのであれば、100点満点である。
まして小学校高学年以降であれば、宿題は誰がやるべきかなんて、自分でわかっていることである。
やっていなければ、学校で気まずい思いをしたり、学習に遅れて困ったりするのは自分である。
我が子の、そのみじめな姿を想像するに耐えられないのである。
我が子可愛さゆえに、色々と手出し口出しをしてしまう。
しかしここに学級担任を20年近くやってきて断言できることがある。
親に勉強をやらされてやっているような子どもは、決して伸びることはない。
本人が勉強にやる気が起きないなら、そこから本人が自分で道を探るべきである。
致命傷にならないぎりぎりいっぱいのところで、失敗の体験をさせることである。
そうしないと、子ども自身が学ばない。
これは作家の中谷彰宏氏の本にあった言葉だが、
失敗した
→これはつまりどういうことなんだろう、と自分なりに仮説を立てて、次のトライをする。
これが大切なのである。
子どもが失敗経験から自分で仮説を立ててトライするチャンスを奪ってはいけない。
失敗は、成功のための種である。
種に水やりをしようというところで、直接食料を与えてはいけないのである。
一方で、大人が助けてあげるべき子どももいる。
生活自体で弱っている子どもである。
肉体的・精神的に追い込まれている子どもである。
そういう意味で、「がんばれない」子どもたちである。
そうではなく、健全に「サボって」いた子どもであれば、見守ることである。
そういう子どもたちは、なかなかに逞しいのである。
生命力さえあれば、何とかする。多分。
この「何とかなるだろう」というのは、信頼感である。
子どもを信頼する。
響きは素敵だが、信頼する側にとっては、なかなかに「いばらの道」である。
その痛みに、親が耐えられるかどうかが、子どもの成長を左右する分岐点である。
全国の元気な小学生諸君。
自分の人生のこと。
親の頭に頼らず、自分の頭で何とかしなさい。
ここをどうクリアするか自体が休校中の課題の本質であり、大きな勝負どころ。
人生の課題の解決には、色んな方法がある。
正面から突っ込むだけが解決方法ではない。色々な角度から解決方法を考えるべし。
算数の問題を解いているのは、算数のテストで点数をとるためではない。
こういう人生の問題を解く練習をしているのである。
大人は、子どもの成長の機会、チャンスとして見守りたいところである。
2020年6月4日木曜日
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