今回の一連の騒動で、学校についての考え方が変わった。
学校というのは、文科省管轄の教育の場であると考えていた。
子どもにとってよい教育をする場。
しかし、今回、この見方が甘く、一面的であるとわかった。
学校というのは、あくまで社会の機構の一つである。
特に、多分に「保育」という面が強いことがわかった。
保育は保育園の役割であり、厚生労働省の管轄、という意識が、はっきりと変わった。
学校は、子どもを預かってくれる場である。
特に勤務等で家庭内に子どもを見られる状況にない場合、学校の有無は収入の有無に直結する。
休校は、生計に関わる一大事である。
また、学校の保育機能が、大人の余暇を生んでいる面もある。
夏休みが母親にとって一番しんどい(特に昼食作り)、というのは昔からよく聞く話である。
思えば、塾や習い事が保育園化している面もある。
子どもは四六時中塾や習い事で休む間もないが、その間に親はゆったりしている、という場合も少なくない。
親の側にも言い分はあるだろうが、やはり保育的な面は強い。
翻って、子どもの立場になってみると、学校こそが子どもの社会的な居場所ということもいえる。
子どもには労働がないのだから、学ぶのが仕事の代わりである。
学校で日々学んでいれば、ある程度堂々としていられる。
それが、家にずっといる(しかも大量の課題付)となると、一気に肩身が狭くなる。
あまりに口うるさい家庭の中にいれば「学校に行きたい」となるのも、至極当然である。
大人にとっての仕事場同様、子どもにとっての社会的な居場所である。
(ちなみにこれまでの休日出勤の状況から、在宅勤務日でも出勤したい大人も、全国的にかなり多いのではないかと予想する。)
学校は、子どもの居場所。
学校は、大人にとって保育機能の場。
そう考えると、また見えるものも違ってくる。
学校教育の在り方については、教育という面だけでは通らないと学んだ次第である。
2020年6月19日金曜日
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