サークルでの野口芳宏先生からの学びの続きと考察。
次のような説明と質問をした。
現在、直接学校で教えることがかなわない。
そうなると、確実に時数不足になる。
時数不足になると、余計なことを教えている暇はない。
もし短い時数で、例えば国語の物語の授業をしなければならないとしたら、どのような授業をすべきか。
概要だが、以下のような教えをいただいた。
子どものための文学は、子どもが読むためのものでる。
よって、大人が教えないと読めない、というような類のものではない。
放っておいても読める。
しかしながら、授業をする意味はある。
作品のもつ、大事なものの価値に気付かない可能性があるからである。
素晴らしい表現を読み飛ばしたり、誤読したりする可能性もある。
「あれども見えず」を顕在化させるという意味で、授業には意味がある。
しかし、時間がないとなると、悠長な問答はしてられないだろう、ということだった。
ただ、全国のあらゆる教室で、過去何十年とやられてきた国語の授業。
これが、本当に国語の学力を形成してきたといえるか、というのは、別問題である。
さて、以下はこれらの話を受けての考察。
自身を振り返ってみて、自分の授業を受けないことで、国語の学力が著しく低下する、ということがありそうだろうか。
ここに自信をもって、間違いなく必要だ、と言えるのなら問題ないのである。
費やした時間だけの価値を生み出せていたのか、ということが今問われているのである。
何度も述べているが、学校に来ることには意味がある。
学校には、存在価値がある。
しかしながら、昭和の時代からあまり大きく変わっていない授業というものの在り方は、見直すべき時である。
同じ答えを求めるための、横並びの学力をつけることが、本当に必要なのか。
個に合った学習、将来役立つ学習の在り方というものが他にあるのではないか。
ちなみに私は、リアルでの授業に高い価値を置いている立場である。
子ども同士が集まって意見を交わし合うことが、人間性を育むという意味でも素晴らしい効果があると確信している。
オンライン上では、正直その1~2割程度しか効果が出ない。
しかし、ICTは、あくまでツールである。
リアルのコミュニケーションの場でも使えるツールとして、これから確実に入ってくる。
国語であっても、意見をぶつけ合って話し合うような授業では、やはり温度が感じられる本物の場がいい。
一方で、学習用語や言語スキルなど、こちらから教えられるものは、オンライン上でも十分できる。
現在、デジタル教科書とホワイトボード機能を用いた完全オンラインの授業を試している。
自分がやっているだけに決して上等とはいえないまでも、これによる授業は、不可能ではなさそうである。
次は、詩の授業も試してみる。
詩の授業などは、読み手の解釈が入るため、意見の交換が面白いところである。
オンライン会議機能を用いて、みんなの顔を見ながらやればまた違うかもしれないので、試してみようというところである。
大切なのは、子どもにとって本当に必要な学力をつけることである。
オンラインとオフライン。
それぞれの特性を生かした、融合した授業の在り方、学習の在り方の模索が必要と感じる次第である。
2020年6月12日金曜日
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