2020年6月17日水曜日

無料は高価

レジ袋が有料化されて久しい。
もう、無料でくれるところの方が珍しい。

ごみ袋が有料になったのも随分昔の話であるが、これも大変いいことである。
(無知で無恥な学生の頃は文句垂れていたが。)
ごみ処理などという大変で高度な技術に、お金がかからない訳がない。
有料になれば、お金がかかるのが嫌なので、ごみそのものも減る。
ごみ処理が有料なのだと気付くこともできる。
いいこと尽くめである。

これは、いい傾向であると思っている。
無料は、本来の価値を見失う。
人間を無思考にして、見えなくしてしまう。
有料であるべきものには、対価として見合う金額をきちんと払う方がよい。

一時期、携帯電話の本体が無料ということがあったが、論理的に考えてそんな訳がない。
YouTube動画が無料なのは広告があるからというのも、無料で見られるTVの視聴率とCMの関係と基本は同じである。

無料には、必ずトリックがある。

学校の教科書は「無償提供」なので、受け取る側にとっては「無料」である。
教科書の裏表紙の値段のところを見たことがあるだろうか。
「¥00000E」
とある。
0円である。
フリーペーパーである。

そんな訳がない。
実際には、莫大なお金が動く。
通常の書籍と違い、発行部数が桁違いであり、利益・利権争いが生じない訳がない。
教科書は、人々の血と汗の結晶である。
当然、内容も通常の参考書よりもずっといいはずである。

受け取る時に無料だから、その価値を感じないだけである。

さて、義務教育そのものも無償である。
子どもにとっては本来「権利」なのだが、義務のように通っていた子どもも多かったのではないかと思う。
それが、権利として受け取れなくなって、初めて価値を感じた子どももいるのではないか。
(一方で、学校に行かないで済むので、せいせいしている子どもだって、もちろんいるはずである。そこは否定すべくもない。)

学校も、実は、無料ではないのである。
あらゆることに、コストが相当かかっている。

それを無料で受け取れていたことに今まで無自覚だったのではないか。
教える側も、子どもが目の前に来て、仕事があるということが当たり前だったのではないか。

学校が無料で、お金のやりとりが見えないのは、全て税金の仕組みの「お陰様」である。
実は、無自覚にお互いかなり高価なものを受け取って「浪費」していたともいえる。

今回、学校に行けずに、自分で勉強をしろと言われて、相当に苦労している子どもたちの姿がある。
実は、自らを律して自由に生きるよりも、他律されてやらされる方が、ある意味で「楽」なのである。
(自分で好きな学問の分野を切り開いて新たな問題を発見するより、難関の試験問題を解く方が楽である。
そして、楽なのと、楽しいというのは別問題である。)
朝早起きして登校する面倒くささも、口うるさい先生も、楽しいけど時々けんかしてしまう友達関係も、学校があってこそである。

一方、教える側も困惑している。
在宅で仕事をしろと言われて、給与に見合った対価を生み出すことの難しさを、相当に感じているところである。
毎日、目の前に子どもが勉強を教わりに来てくれることの、いかに有難いことか。
教員の職能発揮は、子ども集団が目の前にいてこそということが痛切に感じられる。

完全ではないまでも、全国の傾向では、学校が逐次再開しそうである。
今まで「無料」気分でいたことの真価を見直し、新たな視点での教育の価値を生み出していきたい。

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