何かと話題になる資質・能力について。
資質には「生まれつきの性質」という意味がある。
つまり、資質・能力を伸ばすということを考える際、実はその才能が問題になる。
たまたま、走らせると速い子どもがいる。
別にトレーニングを積んできた訳ではない。
たまたま、そうでない子どもがいる。
別に、運動をさぼっていた訳ではない。
他にも、そういうのはたくさんある。
全員に何かしらの才能はある。
一方で、全員に全ての才能がある訳でもないというのが事実である。
私の知人に、小学生の頃から
「農家のお嫁さんになって、牧場で牛を飼いたい!」
という夢をもっている子どもがいた。
動物の中でも、特に牛が、好きで好きでたまらないのである。
かなり特殊である。
「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とかに憧れるのはわかる。
「犬猫が好きで獣医さん」とかも何となくわかる。
牛で牧場経営である。
小学生が抱く夢としては、かなりニッチな方である。
実際、この人の現在は、北海道の農家に嫁ぎ、牧場経営をしている。
これは、そもそも牧場経営における資質・能力があったといえる。
ここに興味をもつこと自体が才能である。
発掘される出来事があったとはいえ、才能としてもっていた訳である。
資質・能力を考える際に、ここは結構重要ではないかと考えている。
つまり、個の資質・能力を伸ばすということは、個の持つ特性を伸ばすという解釈ができる。
資質のあるところ、または見えないけれど埋もれているところを伸長するのである。
それは、動物嫌いの人を動物好きにさせることではない。
元々好きという才能、あるいは知らないけど好きになりそうというところを掘り出し、さらに生き生きとさせる方である。
この辺りを考えると、例えば運動嫌いをどうするかという問題も悩ましい。
「嫌い」を「嫌いでもない」ぐらいにすることはできるかもしれない。
しかし、それが本当に世に求められていることなのかというと、甚だ怪しい。
どちらかというと、もっている才能を最大限に伸ばして欲しいという方である。
一方で、「国民みんなに運動を」というところも求められている。
結構厳しい要望である。
にんじん嫌いに、にんじんを好きにさせるのと同じようなことで、これは難しい。
嫌いなものは、嫌いなのである。
何とか食べられる、程度には変えられるかもしれないが、「大好き」はおろか「好き」にもまず至らない。
個に関する「資質・能力」を考える時には、ここを無視できないという前提は必要である。
では、個の問題ではなく「これからの時代に求められる資質・能力」という場合、何なのか。
「学びに向かう人間性」といった抽象化された曖昧模糊な言葉のままでは意味不明である。
この辺りをはっきりさせていくのが「研究」の役目だといえる。
勤務校もご多分にもれず資質・能力がテーマの中心内容の一つである。
先日の公開研究会が、皆様にとっても何かしらの考える機会になればと思う。
2018年7月9日月曜日
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