毎年書くが、節分の話。
「鬼は外!」という言葉には、悪を追いだそうという願いがある。
元々は災厄の一切を「鬼」という他者のせいにしていたことによる。
しかし実際、鬼は攻撃して排除すれば済むものではない。
一時的に退避したように見えるかもしれないが、気を抜けばいつの間にか隣にいる。
なぜなのか。
それは、実は自分の心の中に巣くっているものだからである。
そのスケープゴートとして、鬼という他者に反映させている。
悪に見えるということは、自分の中にもその悪が潜んでいるといえる。
世の中のあらゆる悪というものに、そういう面がある。
学級を例に挙げて考えてみる。
例えば、友達の鉛筆を盗んでしまった子どもがいるとする。
例えば、友達に暴力をふるってしまう子どもがいるとする。
この行為だけ見れば、その子どもにとっての「悪」である。
それで、その子どもの非を責めたとする。
その子はその時、反省するかもしれない。
しかし、またやる。
その内、もっと大きなことをやる。
悪い事をした相手に、その悪さだけを取り上げて正義で責めても、根本的解決にはならない。
少なくとも学級において、その子の悪の根源、つまり「鬼」の正体は、実は、自分自身の中にいるからである。
次の問いかけを、担任である自分にも、学級の他の子どもたちにも投げかける。
友達の鉛筆をとってしまったその子に、あなたは鉛筆を貸してあげていたのか。
または、自慢したり見せびらかしたりはしていなかったか。
暴力をふるうその子に、あなたは優しさを与えていたのか。
その子どもの中にある優しさを認める言葉をかけていたのか。
自らの行いを棚に上げ、他人の悪に正義を振りかざすその心。
それこそが「鬼」の正体である。
心の中に巣くう以上、他を責めてどんなに排除し続けても、いつまでもいなくならない。
いじめがいつまでもなくならないのは、いつまでも自分が得することばかり考えているからである。
自分の鬼は、自分で何とかする。
すべて、身から出た錆である。
他者を鬼に仕立てあげない。
人の心には鬼が棲む。
自分の中にいる鬼は外に追い出すより、優しく理解を示してあげることの方が大切かもしれない。
2018年2月2日金曜日
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