2018年2月8日木曜日

子どもと本音でぶつかる

子どもを本気で怒るということについて。

1347号の「納得感をもったルールのもたらす緊張感と安心感」について、読者の方からご感想をいただいた。
以下、紹介する。

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(引用開始)
子どもが何をしても(叩いても、蹴っても)、お母さんは怒らないんです。
「やめなさ〜い」とか「こら〜」と言っていますが、決して本気ではないのが、見ていても伝わるほどでした。
それを見ていて、「ああ、これだ。」と思いました。

子供って、親に怒ってほしい時があるんですよね。真剣に。
自分が馬鹿なことをしてる、間違ったことをしちゃったという時に、どこまで親が本気で怒るかを見ている時期があるんですよね。
(それが愛情のサインだとでも思っているかのように。)

そこを省略しちゃうと、「え?なんで怒んないの?」って逆に不安になって、怒ってほしいからもっとエスカレートしちゃうような。。
その子たちを見て、そう思いました。
(引用終了)
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割とよく見る光景ではないだろうか。
それも、教室で。
「お母さん」「親」を「先生」に置き換えると、そのまま通用する。

子どもが、「悪いこと」をする。
その時大人が「ダメでしょ」とかいいながら、ニコニコ(ヘラヘラ)している。
怒られるべきところで、なぜか笑っている。
大人の側には「怒ってはいけない」「いつでも笑顔の私でいることが大切」「否定はダメ」という変な固定概念がある。
(子育てにおける情報化社会の副作用である。)
子どもは混乱する。
そこで、ますます「悪いこと」をやる。
子どもはどんどん悪くなる。
書いてみれば一目瞭然の、当然の悪循環である。

一方、本気で怒った時ですら、子どもはその「悪いこと」を、何度でもする。
散々叱って諭した後に「もうしません」と約束した直後、その日の内に、またやる。
日本全国の教室で見受けられる光景である。

その時、担任は思う。
「裏切られた」「あんなに言ったのに」「どうしてわからないんだろう」・・・
どれも、そう思っても仕方がないのだが、まあ、そう思うだけ無駄である。
なぜなら、それらの「悪いこと」は、自分でも悪いとわかっていてやったことだからである。
「正しいこと」を指導されて直るものではない。
しかし、そこを流された場合と本気で怒られた場合では、長い目でみて確実に結果が変わる。

子どもが「悪いこと」をする時、裏には強い要求がある。
例えば、万引きをするのはお金がない家の子どもかというと、そうとは限らない。
経済的に豊かな家の子どもがやる。
それは、モノが欲しいからではない。
多くは、親や教師、周囲の大人への要求なのである。
「僕の方を見て!」「私をもっと見て!」という叫びであることが多い。
だから、悪いこととわかっていて、敢えてやる。

また、周囲の仲間への「度胸試し」や「忠誠心」を表すために行うこともある。
それを行うことで、最も恐ろしい「仲間外れ」から免れたいという動機である。

つまり、「悪いこと」の裏にはれっきとした要求がある。
それをはっきりと大人が見てとめる必要がある。
そして、要求を読み取った上で、思い切り本気で怒る必要がある。
それがとりもなおさず「あなたが大事だ」というメッセージになる。

ここでのんべんだらりと「ダメでしょ」みたいなことをすれば、行動がエスカレートするだけである。
子どもは、自分のために激怒するまで、ひたすら繰り返してやり続ける。
「もうやりません」の一言ぐらいでやめるなら、そもそもやらない。

約束しても、100回裏切られる覚悟でいる。
その都度、本気で怒る。
それでも、信じることを伝える。
根気比べである。

子どもの要求を読み取る。
その上で、悪いことは、本気で怒る。
「褒めるは良くて叱るは悪い」
「叱ってもいいが怒ってはいけない」
「怒ることは悪いこと」
これらの、誤った固定概念を捨てる。

褒めて伸ばしたいからこそ、叱る。
他人や自分を傷つけるような許せない行為には、叱る以前に怒る。
子どもにおもねって褒めるなんて気持ち悪い。
然るべき場面では堂々と怒る。叱る。
その上で、然るべき場面で認める。必要に応じて褒める。
全部で一つである。

一人の人間として子どもと対峙するのであれば、計算高くはいかない。
生身の人間同士、本音でぶつかる。
今、理想論で湧く教育界全体に最も欠けている部分かもしれないと思う。

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