2018年2月10日土曜日

犬へのしつけと子どもへの躾は違う

最近、犬を飼い始めた。
犬へのしつけは、決定的に子どもへの躾と違う点があると感じた。

子どもへの躾は、読んで字の如く、身を美しくすると書く。
人間として美しく生きることができるように行うものである。
よって、子どもの心や体に深い傷を残すようなものは、これに当てはまらない。
社会で美しく生きる術を身に付けさせるものである。

あいさつ、食事の作法、外でのマナー等、多岐に渡るが、要点は「礼儀」という言葉に集約される。
ごく社会的なものである。

一方、犬へのしつけは、大分意味合いが違う。
時代によってやり方に相当変遷があるが、「良い行いを褒めてご褒美」と「良くない行動は無視して抑制」の二つが中心となる。

ごく簡単に言うと、服従の良さを教えることである。
犬は、人間に服従することが幸せにつながる。
そもそも、飼い犬は人間に死ぬまで養われ続けるので、自活する必要がない。
当たり前だが、自分で稼げるようになって自立したいとかいった、自己実現の欲求はない。

可愛がられ、ご主人様の言うことをよくきけるのが賢い犬である。
よって、先に挙げた二つの手法を駆使していけば、普通の飼い犬へのしつけとしては大体事足りる。 

賢い犬の代表格である盲導犬などは、更に特別な訓練を受けるが、誤解されている面も多い。
例えば盲導犬は賢いが、信号が青になり、横断歩道を渡るかどうかの決定は、飼い主である人間に委ねている。
また、盲導犬がナビのように目的地に連れて行ってくれるということはない。
障害物をよけるといった諸々の訓練と、ある範囲の危険察知の判断はするが、それは一部である。
あくまで、主人の「目」としてのパートナーの役割に徹する。
主人に伴って従って、喜んでもらうことが、盲導犬にとっての幸せである。

立ち返って、子どもへの教育における躾を考える。
賢い飼い犬のように服従して親に伴って生きる「良い子」を育てたかったら、犬のしつけと同じ手法をとり続ければよい。
しかし、子どもは賢い盲導犬とは違い、やがて自立して自分で判断する能力を身に付けることを求められる。

逆に、親から離れられず、何もかもの判断を他人に委ねるようでは、これからの時代を生きる人間としては上等とはいえない。
より良い判断をできる人間につながる躾が必要である。
それが、先に述べた礼儀を中心とした社会性である。

他人を思いやるということも、ここに含まれる。
病院の待合室は、病気の人がいるのだから静かに過ごすのよと教えることも、躾である。
ある年齢からは「理由」まできちんと伝えることが、身を美しくすることにつながる。
やがて、あらゆる状況において、何が良くて何が悪いのか、自分の思考によって判断し、選択できるようになる。
それが「自由」という状態である。

学校教育でも、ここは大いに気を付ける必要がある。
子どもを決して「担任喜ばせ組」にしてはならない。
(先日のやる気スイッチセミナーで、ゲストの講師の方に教えてもらった言葉である。言い得て妙である。)
寄り添い、褒める教育だけでは足りない。
時に突き放し、信頼して、自分で考えさせる教育も必要である。

犬を飼うことで、色々見えてきた。
人間への教育とは決定的に違う。
とにかく「猫可愛がり」して、「所有」したければ、動物を飼う方がずっと良い。
子どもへの教育というのは、手放すために行うものである。
自覚し、意識的に行いたい。

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