前号の続き。
気遣いとキヅカイについて。
例えば、仕事を頼まれるとする。
それが、明らかに自分にはオーバーワークなものであるとする。
頼む方も、重いのがわかってか、やや頼みづらそうである。
それを「やります」と引き受けるあなたに、相手はほっとして感謝をする。
そんなあなたは、立派である。
ただし、この引き受けた瞬間に、誰を思ったかである。
自分の成長を思ったなら、大丈夫。
すべてを自分の責任に帰することで、納得ができる。
相手を気遣ってなら、これは危ない。
途中で起きる嫌なことのすべてを相手の責任に帰することで、不平・不満がの気持ちが高確率で起こる。
その作業中、頼んだ相手が自分より早く帰ろうとしたとする。
前者なら、何も感じない。
頼んだ相手の行動と、自分が選んで引き受けた仕事とは、無関係だからである。
後者なら、「何であの人が私より先に帰るの?」という思いになる。
結局、「ええかっこしい」は、全てにおいて不満だらけになる。
逆に、人に仕事を頼めない人というのも、思いやりがあるようで、逆である。
自己保身の気持ちが強すぎる。
気を遣っているようで、自分の評価・評判を下げるのが嫌なだけということがある。
または、自分がやった方が早いと思っていることもある。
相手を「信頼」するなら、信じて頼んでみればいいのである。
先の例の逆の立場パターンでいえば、頼む側として、「これは結構仕事として重いだろうな」と思う。
誰に頼むか選ぶ。
この人は、という人に声をかける。
結果、断られたら、仕方無い。
こっちとしても、重いとわかっている。
相手を恨む気持ちなどさらさら起きない。
違う人に頼むか、自分でやるしかない。
選べる。
幸いにも引き受けてくれたら、感謝である。
その時、相手が自分の成長のためと思うかそうでないかは、こちらには選べない。
どう思うかまでの責任はとれない。
それは、100%相手の選択である。
とにかく、感謝をして、あとは自分のできることをするだけである。
気遣いは、日本人の美徳とも言われる一方で、欠点とも言われる。
「自分のため、または自分の都合だ」と自覚しているなら、疲れない。
「相手のせいで犠牲になっている」と感じたら、疲れる。
同じ気遣いでも、本物の気遣いと偽物の「キヅカイ」という、別物が存在する。
だから、美徳か欠点かと混乱するのである。
気遣いも、結局自分のため。
最終的には、エゴである。
そういう自覚がある上でなら、気遣いをどんどんすればいいと思う次第である。
2017年11月27日月曜日
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