卒業式の辺りで書いた記事。
毎年この時期に考えることが、この一年で何の力がついたのかということ。
単発では色々なことをしてきているが、どれだけ残っているかを考える。
誰がもっても、とにかく一年は終わるのだから、自分がもった意味を結構考える。
中には「先生のお陰で…」と有難い言葉をくれる子どもや、保護者の方々もいないわけではない。
しかし、どう考えても、本人の自力で伸びたとしか思えない。
少し肥料や水を与えたかもしれないが、伸びたとしたら本人の自力である。
そう考えると、教師のできることは、限られてくる。
教えるとは言うが、相手が習っても、学ぶかどうかは、本人次第である。
私は毎日日記を書かせるようにしてきたが、これは幾ばくか意味があったように思う。
気付きは、自分の中から生まれるものだからである。
万能の手段ではなく、効果の薄い子もいる。
書かない子どもに何とか書かせる試行錯誤も価値はあるが、別の分野に力を入れた方がよい。
結局、自力だからである。
種が違うと、育て方は違う。
当たり前の話である。
私も「お陰」ぐらいに力は添えたが、伸びたのは自力。
つい忘れてしまいがちな自分への備忘録である。
2017年5月1日月曜日
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