ここ最近、授業の略案や指導案を見る機会が何度もある。
校内研究に加え、実習生が来る時期が重なっているためである。
授業を見た後、大抵指導するのが、その授業の目標についてである。
要は、何がしたかったのか。
どうなれば成功なのか。
それこそが、指導案に記述されている目標そのものである。
ただの飾りの文言ではなく、子どもの姿そのものである。
そして、そこに辿り着くために、途中に様々な手立てを入れて、一時間の授業が組み立てられる。
逆に言うと、手立てもなくいきなりやらせても子どもの自力(地力)でできる目標であれば、授業の価値はない。
つまり、その授業をしたことで、子どもにどんな学力が付いたのか。
師の野口芳宏先生の言葉で言えば、どんな「向上的変容」が見られたのか。
逆説的にたずねるなら、その授業をもし受けなかったら、子どもの未来にどんな不利益が生ずるのか。
もしこれらの問いに明確に答えられないのであれば、授業した意味がないかもしれない。
授業を受けることで、プラスの変化が生じているはずである。
ふと、自分の授業を振り返る。
いつの間にか、前に立てば子どもが授業を聞いてくれる立場になった。
しかし、それは本当に向上的変容の連続的保障をしている授業か。
惰性になっていないか。
教科書に載っているから、年間計画にあるからやっているだけではないか。
改めて、自分に問い直してみる機会になっている。
2015年10月19日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿