前号の続き。
「できない」の原因を考える。
以前も紹介したことがあるが、例えば「動作性IQ」が極端に低い子どもがいるとする。
(特別支援教育のスペシャリスト、川上康則先生からの学びである。)
何度テストをしても、漢字が書けない。
「やる気がない」「練習不足」と思いたくなる。
実際、漢字練習もあまりやってこないし、字もぐちゃぐちゃである。
しかし、真実は「文字が記号にしか見えない」という視覚的な情報処理の問題があったりする。
見えないものは見えないのである。
「そんなはずはない」と思うが、そうなのである。
逆の例で考えればわかりやすい。
例えば私には絶対音感がない。(多分、読者の方々もない人の方が多いと思う。)
だから、単体である一つの音を聞かされても、何の音かはわからない。
絶対音感のある人には、当たり前のようにわかることであるという。
「あかさたな」が聴き分けられるのと同じで、意識する必要すらないことらしい。
絶対音感のある人に言わせてみれば「わからないはずはない」のである。
視覚的にいうと、そんなもの「犬」と「太」の漢字の見分け方以上に簡単なことなのだろう。
しかし、私にはどうしてもわからない。
むこうから言わせてみれば「何でわからないの!?」だと思う。
わからないこと自体が理解不能だろう。
「絶対音感はみんなが持っているものではない」という概念がないとしたら、
「やる気がない」「練習不足」とみなされるかもしれない。
だから、自分と相手の情報処理の方法が違う場合、自分の感覚で考えても伝達がうまくいかない。
ただひたすらやらせてみてもダメである。
「できない」の源は何なのか。
この見極めさえできれば、問題は半分解決したも同然である。
逆に言えば、この見極めを誤れば、全て間違った指導にもなり得る。
教室には本当に「経験不足」なだけの子どもも混在する。
この子どもには経験値をどんどん積ませた方がよい。
叱咤激励も時に必要だろう。
一方で、逆効果になる子どももいる。
ここの辺りの見極めが、難しいところである。
何事も「根本・本質・原点」に着目することが大切である。
2014年10月2日木曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿