前号と関連して「競う」「比較する」ことについて。
保育園などで行われる幼児の運動会は、ほのぼのしている。
何というか、せかせかしていない。
(そのせいで終了時間が相当延びるのも常ではある。)
そもそも発達段階として、「競争」に対して興味が薄い。
例えば、障害物競走を見る。
ささっとクリアしてゴールできる子どもがいる。
一方、すごくゆっくりな子どもたちがいる。
最下位の二人がすごく遅い。
一人が、最後の障害物を抜け出した。
そのままゴールするかと思ったら、待っている。
お友だちと手をつなぎたかったらしい。
二人でゴール。
いい光景である。
(ちなみに、ずっと以前に話題になった小学生の運動会の「全員手をつないでゴールすべし論」とは本質を異にする。)
リレーなど見ていても、相手のチームの子どもがバトンを受け取るまで待ったりしている。
まあ、レースが二転三転して、見ていて面白いものである。
勝敗に関心があるのは観客側で、当の本人たちは「どこ吹く風」である。
競争というのは「他者との比較」である。
これが「磨き合い」につながる場合は良い。
オリンピックで最高新記録が毎回出るのもこの原理である。
競争原理は、存在価値がある。
しかし比較によって自己肯定感が下がるのであれば、この場合は不要である。
比較によって行動が抑制される場合も同様。
比較によって本質的に不幸になる場合は、全て不要である。
ちょうどいいタイミングで、上越教育大学の赤坂真二先生のお話で関連したことをきいた。
「クラス会議」という一つの手法についての話だった。
うまく実践できる学級がある。
びっくりするぐらいの「クラス会議」ができる学級がある。
自分のところは大したことない。
その比較自体が、無駄だということである。
たとえば「クラス会議」の手法は、実践によってクラスが良くなることが本質。
そこだけである。
そんなこと気にしてないで、さっさと実践して欲しいということだった。
前号の大縄の実践も同様。
回数はどうでもいい。
回数を設定することでクラスがまとまることに意義がある。
どんな実践も、根本・本質・原点を見失わないようにしたい。
2014年10月22日水曜日
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