高学年を担任すると、確実に起きるのが、男女がうまく混ざらないという状態である。
なぜそうなってしまうのか。
男女の区別が日常の中に溢れているためである。
ファッション。
公共のトイレや風呂。
学校自体にも男子校、女子校もある。
男女の差。
ジェンダーフリーであっても、男女の差は当然ある。
(ジェンダーフリーは男女の差をなくそうという思想ではない。
あくまで固定的な性役割からの脱却であるという。)
男性としての権利、女性としての権利というのも別にある。
身体構造や機能特性が違う以上、完全な同一視をされては不都合が生じる。
ある意味でそれは個人の差である。
身長や体重が違えば着る服のサイズが違うということと同じである。
その個人なりに適した権利というものがある。
様々な個人内の差の特徴的なものの一つとして、男女差もあるといえる。
(だからこそ、個人内で身体と精神の「男女」が、多数派と異なる人は、理解されずに苦しい思いをしやすい。)
男女混合名簿は、そうした壁を取り払おうという意図のあるものであった。
しかし、実際は保健などでは男女別が必要となり、二度手間である。
身体構造が違うという前提では、混合名簿はなじまないのである。
他にも社会や学校の文化には、男女の差を意識させるものが多い。
小さい頃からその傾向が見られ、おもちゃコーナー一つとってもそれが顕著に表れている。
この意識の差を完全に取り払うのはなかなか難しい。
男女の別は文化として、意識の奥深くに根付いてしまっている。
だから、知識としてLGBD等の存在について理解しても、受け容れられない人も当然出る。
子どもより大人、年配者の方が受け容れにくい傾向があるのは、「男女の差」が大きい時代に長く触れたせいもあるかもしれない。
次号、この混ざらない男女をどうするかを考えていく。
2016年8月27日土曜日
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