昨日は、終戦記念日。
日本が降伏を宣言した日である。
見方を変えると、日本国民が長い戦争から解放され、国の再生が始まった日でもある。
死と再生、終わりと始まり、それぞれはセットである。
アンチのものは、互いが相対的に存在する。
生があっての死。死があっての生。
始まりがあっての終わり。終わりがあっての始まり。
始まりがあって終わりがないという「永遠」の存在は物理学的にも未だ決着のつかない深いテーマである。
戦争と平和はどうか。
よく対比して捉えられるが、この二つは、アンチではないと考える。
なぜなら、戦争があっての平和ではない。
戦争が存在しなくても、平和という状態はあり得る。
他と奪い合わなくても共存できる。
だから「原爆が落ちたから平和になった」という論理には、断固反対である。
「戦争が終わったから平和になった」だけならまだわかる。
平和に終わらせる方法は、他にいくらでもあったはずである。
他の明確な目的があった上での言い訳、後付けの理由にしか聞こえないのである。
そして戦争は、WIN-LOSEの関係ではなくLOSE-LOSEの関係である。
勝負に勝っても負けても深い傷が必ず残る。
勝っても負けても相手国とがっちり握手ができる、オリンピックのような「競争」との決定的な違いである。
一方で、戦争を知ることで平和を知るという一面はある。
病気になって初めて健康の有り難みがわかるのと似ている。
普段当たり前すぎると気付かない。
原爆ドームは「負の世界遺産」として有名である。
あれを見ることで辛かったことを思い出す人もいるだろうし、その悲しみの深さは想像し難いが、存在意義は確かにある。
昨日、木更津市は花火大会だった。
花火を見ると、火薬も使い方次第であるといつも思う。
そして同じものを見ている教え子たちには、終戦記念日であることも心のどこかにとめておいて欲しいと願う。
終戦記念日に見る花火は、いつもと違って見えた気がした。
2016年8月16日火曜日
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