クラス会議での気付き。
今年度は、4月からなるべく子どもの活動を見守るようにしてきた。
多少失敗しても、自分たちで学べばいいと。
しかし、この方法の結果は、想像していたのと違った。
我慢して見守るだけだと、目指す方向とはほど遠い状態になる。
なぜなら、失敗しても、それを認識できないからである。
それは何が良いのか悪いのかが明確でないためである。
つまり「良い状態」のイメージが共有化されていないということである。
具体的に言うと、例えば円を作って座る時。
円ががたがたでも全く気にしない。
男女くっきり分かれて座っていても、それが普通。
遅れて円に入れない人がいても気にならない。
自分がでーんと座っているから円が動かないことにも気付かない。
そういう状態である。
「そこを気付くまで待ちましょう」という手もある。
あるにはあるが、どれぐらい待てば果たしてその「問題点」に気付くかである。
時間が無限にあればそれも可能だが、時間は有限である。
何が言いたいのかというと、未知の状態からは指導をしないと良くならないということである。
指導の仕方が問われるのであって、指導そのものを放棄してはならないということである。
「主体的」を目指すアクティブ・ラーニングは、放置では成り立たない。
教師の思う理想状態に近づけるのが、必ずしも良いこととは限らない。
しかし、理想状態を持たない教師のもとでは、子どもは育たない。
そして、それを機会を見つけて伝えていかないと何も変わらない。
たとえファシリテーターの役に徹するとしても、その役に徹しながら、やはり導くのである。
私の尊敬する師である野口芳宏先生は、
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること」
という。
ちょっとの無理が、子どもを伸ばすのである。
少し負荷がかかるから、強くなるのである。
イメージなきところに、成功はない。
指導を怖れていては、指導者とはいえない。
クラス会議をやっていたからこそ見えた課題である。
2016年8月12日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿