本当に自由なクラスでは、授業中に学習に集中する。
これは逆にいえば、休み時間には大いに遊ばせる必要が出る。
休み時間が来ているのに授業を続けるのを「教師の罪悪」と糾弾する人もいるぐらいである。
(一方、子どもたちが本当に熱中している時に、「時刻だから」と機械的に打ち切るのもまた違う。)
自由なクラス。
自由な職場。
自由な家庭。
自由な〇〇。
一人の場合なら、全てが自由で構わない。
しかし、二人以上である場合、その構成員の全ての自由を考えなければ、自由な〇〇とはいえない。
つまり、自由なクラスに近付くためには、その時とその場における集団の目的、願いの共有化が大切となる。
つまり、自由の根底は、考え方にある。
授業を受けている自分に自由を感じているか。
発言する自由もあれば、黙って聞いている自由もある。
外で遊ぶ自由もあれば、一人で読書する自由もある。
本当は一人でいたくないのに一人でいるのであれば不自由。
本当に一人でいたいから一人でいるのであれば自由。
自由なクラスでは、願いをはっきり伝えられることが大切になる。
個々の願いの理解と共有化。
このあたりにクラスの自由のキーワードがあるように思う。
そう考えると、やはり学級目標づくりの際に全員の願いだけでなく、嫌なことまで吸い上げるのは、大切な作業ではないかと思う次第である。
2016年7月17日日曜日
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