前号の続き。
例えば、自習の時の自由。
わかりやすく、極端な例で考える。
自習中に大騒ぎする子どもが全く注意されない状態は、騒ぐ子どもにとっては自由。
真面目にやりたい子どもにとっては不自由な状態である。
一方、一言もしゃべることが許されない静寂状態は、静かに取り組みたい子どもにとっては自由。
しゃべりたい子どもにとっては不自由である。
この差はどこから生まれるかというと、目的の違いである。
騒ぎたい子どもは、遊ぶことが目的になっている。
静かに取り組みたい子どもは、学習を進めることが目的になっている。
この場合、どちらに合わせるべきかというと、やはり後者であろう。
自習時間は本来学習の時間であるからして、遊びのために設定された時間ではないからである。
では、前者はどうするかというと、これは学ばせるしかない。
自習は、遊びの時間ではないことを理解するしかない。
騒ぐことが悪いのではなく、「自習の時間に」騒いで本来の学習が進まないことが悪い。
また、他に迷惑をかけることが悪いのである。
どう伝えるかだが、子どもによって伝わりやすい例は異なる。
サッカーを知っている子ども向けに、サッカーの例で伝えてみる。
ワールドカップの試合で、ドリブルで5人抜きさって強烈なシュートを決める。
このプレーは〇か×か。
普通に考えれば〇どころか◎で、大称賛されるであろう。
しかし、これが「試合終了の笛が鳴った後」に選手が故意にしたことであれば、どうだろう。
恐らく、世界中から非難の嵐である。
今後の公式戦での出場停止処分を食うかもしれない。
数秒の差であるが、「試合中」と「試合終了後」の差は果てしなく大きい。
同じ行為でも、いつやるかによって、それが良いか悪いかは180度変わる。
時と場によって目的が変わる。
この区別を理解することは「自由なクラス」を志向する上でも重要である。
自由と放縦を混同させないようにしたい。
2016年7月15日金曜日
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