子どもにできることはやらせようという話の続き。
何でもやってもらっていると、当たり前になって感謝の気持ちを持ちにくくなる。
例えば、給食。
子どものやることといえば、配膳と食べることぐらいである。
片付けだって、食器を下げるだけで洗うまではしない。
作る苦労や洗う苦労を考えることはない。
この辺りを体験的にわからせる実践として、知人の河邊昌之氏のものを紹介する。
たらいに水をはり、そこに給食を食べた後の食器を入れさせ、洗わせる。
汚い食器や食べ残しの多い食器が多いと、水があっという間に汚れる。
洗うのも一苦労である。
特に米粒がこびりついたものや油ものは大変である。
きれいに食べた後の食器は、さっと洗うだけである。
また、残飯処理と食缶の洗浄も行わせたい。
空になっていれば一瞬だが、残飯が多いと、とたんに労力が数十倍になる。
(もちろん、実際はこの後またきちんと洗ってもらうことにはなる。
管理職及び調理師の方との連携が必要だが、趣旨を理解してもらえば可能である。)
こんなことも一回やってみるだけで、子どもの食べ方が変わる。
苦労を体験したからこそ、感謝の気持ちも湧いてくる。
これが「教える」という段階である。
しかし、毎回洗う訳にはいかない。
そこで、「普段自分たちでできることは何か」を「考えさせる」段階になる。
すると「なるべく残さない」「きれいに食べる」といったことが出る。
あとは「実行に移す」ことをし、時に「振り返り」をし「改善」を繰り返す。
給食の片付け一つとっても、立派な学習サイクルができあがる。
教育の目的は、人格の完成。
そう言われると何だか難しい。
要は、教育によって、今より良くなること。
教育によって悪くしてはいけない。
子どものやれることを自分でやらせることで、感謝の気持ちも自信も育つ。
いつでもねらいをもって、子どもを常時善導したい。
2016年1月12日火曜日
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