前々号の子どもにできることはやらせようという話の続き。
以前5年生を受け持った時、米作りを通した総合的な学習を行った。
田植えや稲刈り等を通して、米作りについて体験的に学ぼうという試みである。
農村部にある学校ではなく、思い切り住宅街にある学校である。
当然、川などはなく、普通に水道を使うことになる。
耕して、防水シートを貼って、畦を作って、かなりの大作業である。
何より、水の管理が大変だった。
特に夏場は、水がすぐなくなる。
川ではないので毎日水を入れねばならず、学年職員が交代でこの作業に当たった。
しかも、水が入るのにも1時間以上かかるので、溢れないように見ている必要もあった。
問題だったのが、一連の大変な部分をすべて教師側がやっていたこと。
子どもがやったのは、観察が中心で、作業としては田植え、稲刈り、脱穀、そして最後に食べるだけである。
仕方のないことかもしれないが、これだけだった。
稲刈りの時、ある子どもが放った言葉がすべてを物語っていた。
「先生、お米って、簡単にできるんだね!」
無邪気に笑ってそう言った。
純粋に、そう思ったのである。
これは失敗したと思った。
それはそうである。
子どもは、楽で楽しい作業を少ししただけである。
後は「上げ膳据え膳」の状態で、何もかもしてもらっているのである。
苦しい思いなど何もしていない。
感想は「米作り、楽勝」なのである。
これでは、農家の人もうかばれまい。
何のための総合的な学習の時間なのかわからない。
普段の学校生活の中でも、こういった教育をしてしまっていないか。
例えば担任が「放課後に子どもの机をすべて整える」ということを続けたとする。
ねらいがあるだろうから、これ自体はいい。
「整った教室環境」という視点から見ると、プラスである。
しかし、これによって「整頓をしない子ども」が育つのは問題である。
子どもの成長という視点から見ると、マイナスの教育になる。
とにかく、やってあげ過ぎは往々にしてマイナスの効果を生みがちになる。
過ぎるか過ぎないかの判断基準が「子どもが自力でできることか」である。
「アクティブ・ラーニング」にもつながる大事な部分であるので、もう少し続く。
2016年1月10日日曜日
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