子どもを健やかに育てるために、保護者、地域との連携が重要だという。
連携するには,相手側も協力したくなることが大切である。
ところで、地域の方々の学校への評価はどう決まるのか。
学校への評価というのは、そのまま子どもの姿への評価である。
地域の方々に見える子どもの姿とは何か。
確かな学力か。
豊かな心か。
学級での生活態度か。
授業参観や学校公開でのすばらしい姿か。
残念ながら、これらのことは地域の方々にはほぼ全く見えない。
では、何が見えるのかというと、登下校時の姿である。
登下校時の子どもの姿が、そのまま学校への評価に直結する。
「一事が万事」ということで、この一点で全体像をほぼ評価されることになる。
(修学旅行先で出会う子どもの評価が、その学校の評価になることとほぼ同じである。)
登下校時にマナーの良さや礼儀正しさが見える子どもたちなら「良い学校」と見なされる。
逆に、道路に広がって歩く、信号無視をするなど交通ルールが守れず、地域の方々に迷惑をかける行為が目立つと、その分マイナスの評価をくらうこととなる。
「それならば」ということで、直接登下校指導をするが、これは期待するような効果が出ない。
(問題行動への一時的な抑止力にはつながる。)
結局、特定の大人(教師や親)に見られているかどうかが抑止力の原因になっているためである。
では、これらの姿に対し根本的にどう着手するのかというと、普段の生活である。
「日常が全て」。
要は、廊下でのルールが守られないなら、外での交通ルールも守られない。
あいさつや態度も、学校内のそれが如実に表出する。
担任が見ている時と見られていない時の行動ギャップが小さいほどいい。
例えば掃除なら「叱られたくない」「褒められたい」という動機でやっているレベルではダメ。
その状態だと掃除が「先生が来た時だけきちんとやる」という嘘をつくための訓練になっている。
「掃除は自分がやるべきことだから、きちんとやる。」という考えならとりあえず大丈夫。
「見られていようがいまいが、ばっちりやりたい。評価されるかは関係ない。」というレベルなら完璧。
そういうごく小さい局面での行動がいくつも積み重なったものが、外への行動に反映すると思われる。
地域との連携を取るためにも、協力したくなるような子どもの姿を見せられるように指導したい。
それには、日常の指導が全てである。
2015年5月25日月曜日
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