4月、学級懇談会があった。
ここに関する話題。
懇談会で、毎年お願いすることがある。
「先生に感謝し、言うことをきくのですよ。」と、子どもに伝えてくださいという内容である。
苦笑される前提で話す。
一方で、自分の方からも「お家の方に感謝し、言うことをよくきくのですよ。」と常々話すことも伝える。
2つで1セットなのである。
どういうことか。
つまり、このようにすれば、子どもは安定するのである。
大好きな自分の親が、先生の言うことをきけという。
その先生は、親の言うことをきけという。
何も矛盾が起こらない。
感謝の気持ちを持つので、子どもが素直になる。
子どもにとって、どちらの教えも、すいすい入る。
三者全員にとって幸せである。
逆を考える。
一方のみが他方のいうことを「きかないでいい」という。
矛盾が起きる。
子どもはどちらにも動けない。
子どもが悩む。
結果、全員不幸である。
もっとひどい場合を考える。
親は先生をけなす。
先生も親をけなす。
子どもは、「自分の周りにはろくな大人がいない」と認識し、不遜な態度をとるようになる。
お望み通り、子どもは両者の教え全てに反対の行為をとり、どんどん悪くなる。
学校に来る度に、悪くなっていくという最悪の結果である。
これを、「ねじのモデル」で考えて伝える。(私のオリジナルたとえ話である。)
大きなねじの絵を描く。
ねじは、子どもそのものである。
大きなねじを、親と教師、二人で両側から回すことをイメージする。
両者が同じ方向に力を加えれば、ねじはどんどん回って移動する。
正の方向なら上向き、負の方向なら下向きである。
また、両者が真逆の方向に力を加える場合、ねじは動かない。
加えて、ねじ自体が傷む上、力を加えている側も疲弊する。
ここで絶対間違えてはならないのは、子どもにとって親と担任の力は並列ではないという点である。
一生の責任を持って過ごす親の方が、断然上である。
担任は、期間限定である。(だからこそ、新鮮でいうことをきくというのも一面にはある。)
だから、親が言う方が先である。
担任と保護者、両者の共通の願いは、子どものよりよい成長である。
つまり、担任と保護者団は、「こどもの成長」という共通の目的を持った一つのチームなのである。
懇談会ではその辺りの認識について再確認し、共に一年を過ごすという意思、そして志を伝えたい。
2015年5月13日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿