他人と近づく空間では、必ずマスクを付けるようになった。
誰しもが、そうする「当たり前」の話である。
なぜマスクをするのかというと、自分の身を守るためでもあるのだろうが、他人のためにもなる。
周りの人の安全・安心のためである。
手洗いもそうで、自分のためだけでなく、他人のためでもある。
みんながそうしている。
これは、みんなが他者への思いやりがあるから、と思いたい。
しかしながら、そうではないのかもしれない。
空気である。
そうしないと、自分が白い目で見られる、という意識である。
同調圧力というものである。
そう考えると何だかよくないもののように聞こえるが、これは意味がある。
同調圧力は、心の在り様に関係なく、一定の行動を引き起こす。
(逆にここへの反発心が強い人は、そのせいで無益な諍いを起こす傾向もある。)
ところで、「心の教育」が叫ばれて久しいが、一向に望ましい効果が出ていない。
それもそのはず、心というものが外部から変化させられるものではないからである。
一方で、行動というものは、心とは別に外部からの働きかけで変化が起こせる。
卑近な例を挙げると、優先席が必要と思われる人が近くにいる場合、そこにほとんどの人は自ら座ろうとしない。
「常識」的に考えて、周りの目が気になるのが「普通」だからである。
それは優しさとはまた別の話である。
常識や同調圧力は、本人が道徳的であるかどうかとは無関係に、使い方次第で社会的に望ましい行動を引き起こすことができる。
ここが一つポイントである。
要は、どこを変化させるか、というところである。
心のようにコロコロ変わって、かつ外からは支配・コントロールができないものがある。
そこを直接どうにかしようとするから、無理が生じる。
変えられるのは、行動である。
道徳的どうこうは関係なく、慣習に沿って動いている。
新しい慣習ができれば、そこに合わせた新しい行動様式をとる。
いじめの認知件数がまた増えて、過去最多54万人ということでニュースになっている。
ちなみにこれは文部科学省が発表した
「平成30年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」
からの数である。
大分正しい認識が広がったが、学校が陰湿化している訳ではなく、些細なことでも学校が取り上げるようになった「成果」である。
その意味では、以前よりも学校が開かれた明るい場になっているともいえる。
このいじめ行為をなくしたいと、誰しもが思う。
だから心を教育しようとする。
ここに無理が生じる。
心は外的に変化させることはできない。
ここに、先の同調圧力をプラスに使えればいいのである。
「人をいじめて楽しむ人とか、かっこ悪すぎる。信じられない」という常識である。
「いじめ」が常識からの逸脱行為になっていれば、「おいおい、あなた空気読みなさいよ」ということになる。
そこをプラスの同調圧力にするためには、助け合いがスタンダードになっている必要がある。
「人を助ける・親切にするのは、普通」という状態である。
それをずっと遡ると、「仲間の物が落ちていたら拾ってあげるのが普通」という常識がある。
さらに「何かしてもらったらありがとうを言うのが普通」「人にはあいさつをするのが普通」という常識がある。
それらの些細なことから逸脱していくと、少しずつ逆の方向にいく。
先のように「弱い人をいじめるのが普通」という誤った状態になり、同調圧力が違う方向に働いてしまう。
一番落ちた状態が、正しい行動をとる人を「いい人ぶって」「かっこつけちゃって」と排除していく状態である。
変な同調圧力がかかって、あらゆる正しい行動を取りにくくなる。
これは教室だけでなく、荒れた職場など社会全体でも、この原則は同じである。
「悪ぶっている」人が幅を利かせているのは、多くの人にとって生きにくい状態である。
(だから、テレビのようなメディアに出演する人の言葉づかいやふるまいが、教室の子どもに与える影響は大きい。
人気がある=社会的にそれが「よし」とされている、ということを学ぶからである。)
同調圧力自体に善悪はない。
それよりも、この強力な同調圧力をどちらの方向に使うか。
学級経営においても有用な視点である。
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