いじめ問題についての一考察。
11月は、その発生頻度の多さなどから、いじめ防止のための取り組みが全国でも多い時期である。
最近あまり世間で大きく取り上げられていない気がするので、逆に問題意識としてあげるべきと思い、書く。
(いじめのニュースがブームとして波のように来るだけで、いじめ問題自体はそれに関係なく常に存在し続けてる。)
いじめ問題に限らず、学校における問題というのは学校だけの問題に留まらない。
学校を卒業して社会に出ればその問題が解決するかというと、全く逆で、社会に出てからこそ深刻な問題になる。
いじめは、社会に出てからも対象と形を変えて続く。
社会や人間への恨みが続くといってもいい。
ひどい場合だと、学校への恨みを無差別に無関係な人にまき散らす攻撃行為となる。
いじめは、心の奥底、無意識レベルまでを浸食する。
いじめは、解決されないままだと、した側、された側両方の心を歪める。
それは、人や社会への攻撃行動となって現れる。
SNSや掲示板等による誹謗中傷も、過剰な自己承認欲求も、根は同じである。
いじめの快感と、いじめられないようにするために上に立とうとする心理。
大人になってもなお、誤った競争意識が働いてしまう。
弱肉強食の動物的行為であり、人間としての成熟した姿ではない。
そう考えると、いじめ問題というのは、社会をよくするという面からも、学校で最優先事項として解決すべきことである。
そしてこれだけ長年にわたり問題としてあり続けているのだから、根本的に考え直さないと解決できないということである。
いじめをなくすには、道徳や正しい在り方、みんな仲良くといったことを口で説いてもだめである。
みんなで合言葉にしても、結局お題目にしかならない。
具体的行動である。
ほんの些細な日常の行動が全てである。
例えば、言葉遣い。
乱暴な言葉遣いが容認されている空間では、いじめはなくならない。
言葉が心と人間関係を規定するからである。
例えば、掃除。
汚れて荒れた空間では、いじめはなくならない。
環境が人の心を左右するからである。
自分の始末を自分でつけることで、人のお世話になっていることに初めて気付ける。
例えば、ちょっとした親切。
誰かが物を落とした時に自然とひょいと拾ってあげられる。
「ありがとう」の一言が言える。
たったこれだけのことでも、教室の雰囲気は変わってくる。
小さな小さな具体的行動の積み重ね。
こうした些細なことが、相乗効果で教育的効果を生む。
「当たり前」の些細なことを大切にする。
そういったベースの上でこそ、言うべき時に「言う気」=勇気が湧くというものである。
正しいことすらまともに通らないような風土では、言う気も勇気も湧いてこない。
いじめ問題のような大きなことにこそ、日常の小さなことが大切になると考える次第である。
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