主体的に学習に取り組む態度と、個々の成長について。
ランニングをする場面をを考える。
ランニングは、自分のペースで走る。
レジャーで友達と話しながらでもいいが、その場合双方に余裕が必要である。
成長の機会、トレーニングとしてのランニングがある。
実力があまりに違いすぎる者同士だと、一緒に練習するのが難しい。
集団で走っている場合、実力が近い者同士なら切磋琢磨になる。
ペースが速い者にとっては、遅い相手に合わせてゆっくり走ることが無意味になる。
ペースが遅い者にとっては、速い相手に合わせること自体が困難である。
もしこの両者が一緒に走れている状態があるとしたら、速い方が遅い方に合わせているのである。
あるいは、遅い方が速い方に、後先考えず死にもの狂いでついていっているのである。
いずれにしろ、不幸である。
成長は、このランニングに似ている。
成長のためには、あくまで、自分のペースで走ること。
それも、自分をストレッチしてくれる程度の「少しの無理」をするペースに自ら設定していく。
それが「自己調整」の一面である。
その点、一緒に走る集団の実力が近いと、よい意味での競争が生まれる。
集団の全員が一団となって走る必要はなく、あくまで個々のペースで近い者同士が互いに励まし合い、高め合えばよい。
ここまでは、学習集団の在り方という話である。
次は、教えるという側面から。
コーチとして子どもと一緒に走ることもある。
しかしその場合、一緒に走って励ますことはできても、代わりに子どもの分を走ってあげることはできない。
走るのは、あくまで子ども自身なのである。
息が上がって足が重くなって辛い思いをするのも、子ども自身なのである。
どんなにこっちに余裕があっても、そこの代行はできない。
教えるというのは、そういう面がある。
走るのはあくまで子どもである。
励ましても何をしても、本人に走る意思がなければ何もできない。
人間は、本質的に孤独である。
一人として生まれ、一人として死んでいく。
支えあうことがあっても、誰も自分の代わりには生きてくれない。
人間は一人では生きられない一方で、一人としてしか生きられないのである。
主体的に生きていくしかないのである。
やたらに群れたがるのは、生き物として弱いからである。
あくまで一人で生きた上で、必要な時に必要な協力をすればよい。
他の協力が必要な時は助け合い、そうでない時は一人でいるのが自然である。
(だから、トイレぐらい一人で行きなさいと、やたらつるみたがる子どもに対して言う。)
主体的に学習に取り組む態度の育成は、授業だけで成立するのではない。
普段のあらゆる生活全てで育んでいくものである。
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