2020年11月17日火曜日

「〇〇ファースト」は天国か地獄か

 「○○ファースト」という言葉がある。

これは、一つの観であり、世界の見え方に関わってくる。


世界は 思い通りである



自分だけが 得をしたい

自分だけが 先に行きたい

自分だけが 楽をしたい

自分だけが すごいと言われたい


自分だけが 大事にされたい


周りを見れば

「自分だけ」の人があふれ

争い合う世界がある



みんなに 得をさせたい

みんなに 先に行ってもらおう

みんなに 楽をしてもらおう

みんなに すごいと言ってあげたい


みんなを 大事にしたい


周りを見れば

周りを大切にする人があふれ

自分を助けてくれる世界がある



世界は 思い通りである



集団全体が相互扶助の関係というのが理想形であり、十数年に渡り、いつも子どもに話していることである。

何のことはない、日常の些細な出来事の一つ一つが、これである。

学級経営そのものが、これである。


日常のものすごく些細な例を挙げる。


プリントを列毎に配る。

配る側が数え間違えて、足りないとする。


「自分」の世界で固まっている集団は、自分の分をとるので、最後の人が足りない。

列から最も遠い、一番後ろの子どもが「足りません」と取りにくる。


「みんな」の世界の人は、先に相手に渡すので、途中で気付いた子どもが自分の分をもらいにいこうとする。

列の一番後ろの子どもにはプリントは既に行き届いている。

しかし気付いた子どもが取りに行こうと思った瞬間に、その前にいる他の子どもが気付き、さっとそれを渡してその子どもが取りにいく。

あるいは、足りなくて困っている子どもではない子どもが、代わりに取りにくる。


些細なことだが、こういう場面が一日の中で連続的に現れる。

当然、後者の方が気分がいいし、日々が過ごしやすい。


注意点は、誰かを犠牲にしないことである。

よく気が付く子どもが一人二人という状態だと、この子どもたちが犠牲になりやすい。

全体にその傾向があれば問題ないのだが、少ないとやはり少数の「みんなに」が多数の「自分だけが」に搾取される形になってしまう。


学級経営の肝は、この「みんなに」の気風を強めていくことである。

これは全体に行き渡ると、自己犠牲の精神ではなくなる。

逆に個性尊重の動きになる。

互いが互いの良いところを生かそうとするので、自然と互恵の関係になる。

授業中にできないことを恥じる風潮や、挑戦できない雰囲気もなくなっていく。

いじめも自然と減っていき、何かあっても集団に解決できる力がつく。


「自分だけが」の人間を育てたいなら、学校はいらない。

授業中の交流も話合いもいらない

係活動も給食当番も掃除も何もいらない。


「みんなに」という人間、つまりは社会で活躍する人間を育てるために、学校は意義がある。

個性が生きるのは、社会に自分を必要とする人がいてこそである。

だから、自分の能力を磨く価値がある。


教育基本法の第一条が全てである。


教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、

個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


繰り返すが、「みんなに」とは、自己犠牲の精神では決してない。

社会へ自分を役立てて生かそうという考え方である。

究極的に、誰よりも自分のためになってしまう考え方である。


「○○ファースト」という言葉は、使い方次第で天国にも地獄にもなる言葉である。

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