前号書いた通り、人間は周りとの関係でペルソナを付け替える。
これは、当然教える側、担任自身にも当てはまる。
ある意味、役割演技である。
新卒という役割と学年主任という役割で、演じ方が変わるのは当然である。
管理職と他が一緒の役割演技では困る。
幅はあれど、それ相応のものが求められる。
学級担任に絞って考える。
学級担任として、望ましいペルソナを出すにはどうするか。
ペルソナは関係性で決定するので、どういう関係性が望ましいかを考える。
これはいつもの逆思考発想で、望ましくないペルソナと、それを出さざるを得ない状況を考えればよい。
例えば、やたらと細かくて強制・統制的なペルソナが出る場合。
担任が、周囲にそれを求められている場合がある。
「もっと厳しくしてくれないと」
「周りに合わせて」
「もっと細かく見てください」
これらの要望が強いと、本人が本来どうこうに関わらず、統制的なペルソナが出やすい。
例えば、暖簾に腕押し、全然やる気がないようなペルソナが出る場合。
「がんばっても無駄」
「言われたことを黙ってやればいい」
「余計なことをしないでください」
こういった声かけや職場風土がある場合、このペルソナが生きやすい。
一生懸命やっても「目立とうとして」「鬱陶しい」と浮くだけである。
平たく言うと、一般的にも望ましくないペルソナが出るのは、その場の人間関係に信頼感がない時である。
出したい自分をペルソナとして出そうとすると、損害を被ると予想される関係である。
子ども同士でも同様だが、安全・安心がベースにない限り、他者貢献より自己防衛を第一に考えるようになる。
総じて、望ましいペルソナが出る場とは、人間関係が良い場、これに尽きる。
互いが他者貢献をしようという風土。
自ら動いた時にそれが認められる風土。
仲間が失敗してもお互い様、挑戦して失敗しても大丈夫と励まし合える場。
担任の元気は子どもから、と思いがちだが、実はその考えでは不十分である。
管理職をはじめ同僚の重要性はかなり高い。
また、保護者が担任をどのように見守ってくれているかも大きい。
どちらも、いちいち細かく口出しされ、批判されるようだと、防衛的なペルソナを付けざるを得ないからである。
つまりは、人間関係が全てである。
良い仲間に恵まれること。
その良い仲間の一人に自分がなろうとすること。
学級担任としての望ましい在り方と子どもへの教育は、その本質においては同様である。
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