今回も節分の話。
奈良県のあるお寺では、「福は内、鬼は内」と唱えるという。
全国で追い払われた鬼たちを仏門に帰依(神仏を信仰させること)させるためだという。
なるほど、追い払われた鬼にも行き場が必要である。
全国の「鬼」に、救いの手をさしのべる。
苦しんでいるものほど、救いの手が必要である。
そう考えると、子どもの中の「鬼」にこそ、救いが必要である。
学校は、「鬼」を追い払う場ではなく、救う場である。
怠け心も卑しい心も何もないのならば、救う必要はなく、来る必要もない。
そういう「鬼」が心の中にあるからこそ、学校は集まって学ぶ意義がある。
学校に来る子どもがみんな勤勉で誠実で完璧な善人ならば、教師に教えられることは一つもない。
むしろ逆で、人間の中には「鬼」がいることを認める。
教えている教師の方にもいることを認めて、伝える。
「私はいつも真面目で道徳的で、完璧な生活をしています。」という人がいたら、気持ち悪い。
親だって教師だって、そんな立派な人間な訳がない。
煩悩だらけである。
そういう人間が集まって、多少なりとも良くなっていこうという場なのである。
だから、悪いことがあってもいい。
良くなろうとすること自体が大切である。
「鬼」は大人になっても一生ついて回るものだから、一生勉強である。
「鬼」に支配されてはいけない。
付き合い方が大切である。
子どもに教えるとともに、自分自身の「鬼」との付き合い方を考えたい。
2017年3月9日木曜日
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