前号の続き。
話し合いにおける危険とは何か。
それは「批判されること」である。
中には剛胆な人もいて、批判大好きという人もいるが、相当レアである。
普通の人、特に子供は、自分の意見を批難・批判されることは好まないことが多数である。
手を挙げて間違えたらどうしようというのも同じ理由である。
間違えると何か言われる風土がある=危険=不用意に発言しない という流れである。
では、自由な話し合いに安全を確保するにはどうするか。
まず、「制限があるからこその自由」という前提を考える。
一定の枠組みの中で、選択の自由が与えられている場合である。
スポーツ全般などはこれに属する。
サッカーで、どこにパスを出すかは自由だが、それはコート内であることや、手を使わないことなどの制限がある。
そして、殴ったり蹴ったりしてはいけないという安全面の制限がある。
制限があるからこそ、選択肢ができ、創造性を発揮できるという面がある。
そこで話し合いの自由と安全について考えた場合も、一定のルールが必要である。
様々な研修会に参加したり、実際に自分で授業をしたりすると、ルールの大切さがわかる。
ただ「話し合って」よりも、一定のルールがある方が話しやすいし、話が盛り上がる。
例えば、私が毎年受ける赤坂真二先生の講座では、
「〇〇について詳しいとお聞きしましたが」と前ふりをしてから、隣の人と話すように言われることが結構ある。
これは、半分冗談なのだが、そう言われると話さざるを得なくなる感じになり、話の促進に一定の効果がある。
他のルールもある。
「隣の人と」「後ろの人と」「男女で」「初めて会う人と」など、話す相手の指定。
「2人で」「3人組で」などと、人数の指定。
「最近感動したこと」「最近最も関心のある教育問題について」など、テーマの指定。
話し合い自体のルールも大切である。
例えば「相づちをうちながら」というのは、一般的なコミュニケーションスキルであり、肯定的スキルである。
しかし、この行為には、裏の面もある。
反応するということは、評価にもつながる。
すると、人によっては、話しにくいのである。
この真逆をいって「反応しない」「一切口をはさまない」「ひたすら聞く」というルールを設け、輪番で話す方法もある。
「制限時間1人1分」というように枠も決めておく。時間内は、その1人のみしか話す権利がない。
意外なことに、これは結構話しやすい。
途中で口を挟まれないので、話したいことをしっかり話せる。
どう感じようが評価による反応はないので、とりあえず話したいことを話せる。
時間も全員にきっかり与えられているので、不平等感がない。
「時間が余っても、何でもいいからしゃべる」ということで、とにかく時間を使い切らせる。
全員が終わった後でフリートークを入れれば、もっと話したい人がそこで話せる。
結果、全員が話して全員の意見を聞き、満足する訳である。
手法は様々であるが、特に初期の段階はいくつかの話し合いルールがあった方がうまくいく。
慣れてきて使いこなせるようになったら、枠を外していくという感じである。
今後、教育で「自由」を志向するからこそ、ルールにはよくよく気を配りたい。
2017年3月18日土曜日
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