研修で、特別支援学校の先生のお話を聞く機会があったので気付きのシェア。
「インクルーシブ教育」と「合意的配慮」がテーマだった。
インクルーシブ教育が「すべての子どもにとってよいもの」である以上、個人差の存在が前提である。
障害を含めた違いを包含(インクルーシブ)する教育である。
(他の教育用語同様にやたらカタカナなのは気になるが、内容は共感できる。)
つまり、違いが前提にある。
磨き合う集団は、違いを認め合うことが絶対条件である。
違うからこそ、磨き合える。
本当に磨き合う集団ならば、インクルーシブ教育が成立しているはずである。
この、違いを認めるというのが、学校(特に公立校)にとっては大変難しいという話だった。
学校というのは、「同じ・公平」が求められるという。
誤解を怖れずいえば、「違いを認めないこと」を奨励している。
例えば「運動会で手をつないでゴール」のような行きすぎた例が取り沙汰される。
学校側は「そんなことはない」と言うが、実際「同じ」を求める傾向は確かにある。
時間や内容の枠が決まっている以上、ある程度揃わないと、事が進まないのである。
例えば、体育の場面。
ものすごく着替えがゆっくりな子どもがいる。
待ってあげたい。
しかし、時間が決まっている。
20分遅れられると、活動時間が半分になってしまう。
しかも、原則として、そういう子ども一人を教室に残して先に始める訳にもいかない。
しかし、遅いのも「違い」である。
ここを認めながら成立させよということである。
大変な困難が伴う。(困難というより、手立てが見つからないと、努力しても不可能である。)
こういうことを言うと、「本人の気持ちの問題」だと考える人もいる。
ここが大変難しく、本人的にフルスピードであったりする。
ここは、本人にしかわからない。
普通にできる人にとっては、ふざけているようにしか見えないのが辛いところである。
例えば、私は字をきれいに書くことが苦手である。
真面目に書いているけど、ダメなのである。
この気持ちを理解してくれる人とそうでない人の理解度の違いは、天地の差である。
ほとんどの人が、頭では理解しているつもりで、「でも、本当はやる気の問題よね」と思っている。
ここを本当に理解できるかである。
違いを認めるというのは大変な気合いと覚悟と、深い人間理解がいる。
長くなったので次号に続く。
2016年10月21日金曜日
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