例えば、今まで、官制と民間、無料と有料と問わず、様々な研修会に出てきた。
涙が出るほど感動した話を聞いている矢先、ふと横を見ると、隣の人が寝ていることがあった。
いや、あったというより、探せば必ずといっていいほどいる。
つまり、私にとってアクティブ・ラーニングが成立している研修会でも、ある人にとってはそうではないということである。
無論、逆の場合もある。
ある人に「すごかったね」と言われて「どこが?退屈すぎて、寝ないように必死だった・・・」と思ったこともある。
では、例えばグループ・ワークがアクティブ・ラーニングを成立させる手法の一つとして挙げられる理由は何か。
子どもが、主体的に「なりやすい」からである。
ポイントは「なりやすい」であって、必ずしも「なる」のではない。
そこを間違えると「グループ・ワークをしたからアクティブ・ラーニング」のような変な勘違いになる。
「講義形式」が非アクティブ・ラーニングの例の矢面に立たされる理由は何か。
多くの場合、講義形式での授業技量が低いからである。
平たく言うと、授業が下手なのである。
授業者が並大抵のレベルでは、講義でアクティブ・ラーニング状態にさせられないからである。
名人になれば違う。
例えば有田和正先生の生前の講義を受けたことのある人はわかると思うが、話しっぱなしである。
そして、爆笑&感動のオンパレードである。
色々なことを考えさせられる。
あれを見て、「講義形式はダメだね」という人を見てみたい。
要は、そういうことである。
アクティブ・ラーニングが求められる背景の根本・本質・原点は、子どもに社会をたくましく生きぬく力をつけさせること。
社会の求める本質は、一貫して変わっていない。
言葉と伝え方が変わっているだけである。
では、私たちはどんな授業をしていけばいいのか。
それは、目の前の子どもの姿を抜きにしては語れない。
私の目の前にいる子どもたちと、あなたの目の前にいる子どもたちは、全く別の人間である。
共通点は、子どもであることだけである。
対するは、〇〇さん。
さらに、△△君。
はたまた、□□さんはどうか。
文字通り「全員」が「アクティブ・ラーニング」の状態ならば、これは成功であろう。
結局は、ぼろい方法はない。
アクティブ・ラーニングは、方法論では決してない。
最大の教育環境は、教師自身である。
そんな真剣さの中にしか、アクティブ・ラーニングなるものも実現されないと考える。
2016年3月16日水曜日
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