前号の「嫌アプローチ」に関連して、素直さという話。
私が以前からお世話になっているある校長先生が、素直であることの大切さについて語られていた。
次のようなお話だった。
注意されるとすぐ泣く子どもがいる。
周りは「かわいそう」とか思うかもしれないが、それは違う。
注意されて泣くという行為は、「意固地」の現れともいえる。
相手の言葉を受け容れず、素直でないということ。
心のコップが上を向いていれば、素直に受け容れる。
素直に受け容れる子どもは、泣かない。
素直な子どもは、人からかわいがられる。
かわいがられる人には、周りの人が声をかけてくれる。
人が集まってくる。
結果、素直な子どもは幸福になる。
その通りだと思い、深く頷きながら聞き入っていた。
これまでの経験上、素直な子どもは伸びると確信を持って言える。
逆に、素直でない子どもは、あまり良い思いができないことも知っている。
例えば、良くない行為について注意したとする。
Aさんは、「ごめんなさい」と言って、すぐに直す。
もっとすごいと「教えてくれてありがとうございます。」と後になって感謝の言を述べる。
(実際にこういう子どもは、学年を問わず必ず存在する。)
素直に受け容れるので、周りも色々教えたいと思う。
誰しも、何かある時には、Aさんにお願いしたいと思う。
結果、人も役割も集まってくる人物になる。
Bさんは、注意されるとすぐふてくされたり、泣いたりする。(または怒る。)
もっとひどいと、後で陰で周りに愚痴ったり、注意した人を逆恨みしたりする。
泣いたり騒いだりするので、注意した人はもちろん、周りもいたたまれない気持ちになる。
Bさんに何か言うと、全ての人の気分が悪くなるので、誰も注意しなくなる。
間違っていても誰にも何も言われない、ものも頼まれない、近付かれないという状態になる。
「触らぬ神に祟りなし」という状態になる。
この反応については、注意する側は選べない。
その時の相手次第である。
しかし、今述べたような話を常々して、どういう反応をするのが結果的に良いかを指導することはできる。
素直さの在り方を示すことはできる。
では、学校教育において、どうやってその素地を作るのか。
(次号に続く。)
2015年6月7日日曜日
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