2015年6月11日木曜日

「きちんと」を考える

「きちんとした子ども」。
この字面から、どういう印象を受けるか。
プラスかマイナスか。

これは、実物をみないと何ともいえない。
「一見きちんとしている」のか「芯がきちんとしている」のかで、雲泥の差がある。

見分ける方法がある。
それが「素直さ」「明るさ」である。

「一見きちんとしている」の方は、どこか暗い。
目がどこかすわっていて、濁って見える。
行動にもどことなく裏やわざとらしさが見える。
「先生の前でだけ」という感じがある。
外に出るとマナー違反やルール破りが通常以上に多い。
形式的、機械的、強圧的な指導でいくと、この種の「一見きちんと」になる。

「芯がきちんとしている」の方は、底が明るい。
目の奥が輝いている。
誰に対しても素直であり、どこでもきちんとしている。
(そして、かわりに家の中で結構だらけていることが多い。
家庭訪問で「家だとだらしなくて」と親に言われる子どもである。
大体が、素直で本当に良い子である。
ただこの公的モードは疲れるので、一番安心できる家庭で素の自分がさらけ出せるようである。)
外に出ても、マナーがしっかりしており、見えないところで人助け等をよくする。
外で会った時に、あいさつも進んでする。
そしてなぜそこではそうするべきか、意味がわかっていることが多い。
(多く、親が幼少期にかなりみっちり躾けている。親の背中をよく見て育っている。)
芯をきちんとさせるために、学校では根本・本質・原点に立ち返った指導を常にしていく。
見た目や形にとらわれたうわべだけの指導をしていると、芯は育たない。

見た目で判断できなくても、外の評価で判断できる。
学校内と、地域社会での評価を比較して見る。
「校内できちんとしていて、外でもきちんとしている」なら、本物で心配もない。
「校内で悪く、外でも悪い」は、言うなれば至極当然で、校内での指導如何で改善が見込める。
「校内できちんとしていて、外で悪い」という状況は最も注意が必要で、そこまでの指導を根本から改める必要がある。
(ちなみに「校内で悪く、外できちんとしている」という状態は、あまり期待できない。
 学校は社会の縮図である。)

表面的でなく、本物の「きちんと」した子どもを育てたい。
そのためには、こちらの言っていること、やっていることを本物にするのが、まずは必要最低条件である

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