「きちんとした子ども」。
この字面から、どういう印象を受けるか。
プラスかマイナスか。
これは、実物をみないと何ともいえない。
「一見きちんとしている」のか「芯がきちんとしている」のかで、雲泥の差がある。
見分ける方法がある。
それが「素直さ」「明るさ」である。
「一見きちんとしている」の方は、どこか暗い。
目がどこかすわっていて、濁って見える。
行動にもどことなく裏やわざとらしさが見える。
「先生の前でだけ」という感じがある。
外に出るとマナー違反やルール破りが通常以上に多い。
形式的、機械的、強圧的な指導でいくと、この種の「一見きちんと」になる。
「芯がきちんとしている」の方は、底が明るい。
目の奥が輝いている。
誰に対しても素直であり、どこでもきちんとしている。
(そして、かわりに家の中で結構だらけていることが多い。
家庭訪問で「家だとだらしなくて」と親に言われる子どもである。
大体が、素直で本当に良い子である。
ただこの公的モードは疲れるので、一番安心できる家庭で素の自分がさらけ出せるようである。)
外に出ても、マナーがしっかりしており、見えないところで人助け等をよくする。
外で会った時に、あいさつも進んでする。
そしてなぜそこではそうするべきか、意味がわかっていることが多い。
(多く、親が幼少期にかなりみっちり躾けている。親の背中をよく見て育っている。)
芯をきちんとさせるために、学校では根本・本質・原点に立ち返った指導を常にしていく。
見た目や形にとらわれたうわべだけの指導をしていると、芯は育たない。
見た目で判断できなくても、外の評価で判断できる。
学校内と、地域社会での評価を比較して見る。
「校内できちんとしていて、外でもきちんとしている」なら、本物で心配もない。
「校内で悪く、外でも悪い」は、言うなれば至極当然で、校内での指導如何で改善が見込める。
「校内できちんとしていて、外で悪い」という状況は最も注意が必要で、そこまでの指導を根本から改める必要がある。
(ちなみに「校内で悪く、外できちんとしている」という状態は、あまり期待できない。
学校は社会の縮図である。)
学校は社会の縮図である。)
表面的でなく、本物の「きちんと」した子どもを育てたい。
そのためには、こちらの言っていること、やっていることを本物にするのが、まずは必要最低条件である
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