1学期、テストをするとよく子どもが質問してくる。
「先生、漢字で書きますか。」
高学年の社会科のテストで特に多い。
答えはいつも「漢字で書きましょう。」である。
この返答はいつでもぶれない。
国語の漢字テストではさすがに質問してこない。
「漢字テストでなければ漢字を書かなくていいのか。
それならば、何のための漢字テストなのか。」と問い返すこともできる。
日常のノートや日記などの文章で、習った漢字を書いて、初めて意味がある。
質問を受けた時はチャンスである。
逆に子どもに問う。
平仮名だと何がいけないのか。
なぜ漢字で書きなさいと言うのか。
平仮名でも別にいいのではないか?
漢字である必要はあるのか?
改めて問われると、初めて考える。
ユーモアをいれて、
「実は、みなさんを苦しめるため・・・
では、ありません。」
などとやりとりをする。
答えの一つとして、「漢字の方が良い」という実例を挙げる。
例えば、黙って次のように板書する。
「すもももももももものうち」
子どもたちは口々に読む。
読み方は当然滅茶苦茶で、ピンときた数人を除いては、正しく読めない。
隣に「李も桃も桃の内」と板書する。
李の読みも、ここで教える。(これも学力形成である。)
これなら、きちんと読めると実感する。
これは「うらにわにはにわにわとりがいた」でも、何でもいい。
とにかく、平仮名だと読みにくい例を挙げる。
文章の基本は「達意」である。
意味が伝わらないといけない。
仮名は音を表すものであり、それ単体では意味を成さない。
だから、通常の文章では、意味の通る漢字を用いる。
読みやすさを考えた、相手本位の思いやりである。
詩などで柔らかさを表現する為に敢えて平仮名にするのとは、訳が違う。
だから、小学一年生の作文を読むのは中学生の作文を読むよりはるかに大変である。
漢字が少なく、ぱっと見て意味が伝わってこない。
漢字が書ける子どもの文章ほど、楽に読める。
逆も然りで、高学年なのに平仮名だらけの作文を読むのは、かなり労力がいる。
(ここに気付かせるには、作文を交換して読み合う活動が有効である。
子どもにとって作文は、書きっぱなしで人のものを読む機会が少なくなりがちである。)
ちなみに、漢字は書けることよりも読めることの方がより大切である。
書く機会より読む機会の方がはるかに多い。
そもそも、パソコンの普及により手書きの機会がぐっと減っている。
書けなくても、変換すれば出る。
しかし、読めないと読書一つにもかなり支障がでる。
そこで、書ける字を敢えて平仮名にさせない。
書けば読めるようにはなる。
読めるようになるためにも、書かせる。
板書ならば、学年配当漢字とは無関係に漢字&振り仮名。
子どもの学力向上を見据えて、敢えてそうする。
日常の大切な言語教育であると思う。
2014年3月20日木曜日
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