2014年3月13日木曜日

できないことでも教えられる

前号の道徳の授業の話の続き。
自分が感動した資料でないと、授業が空々しくなる。
自分がやったりできたりしていないことは、心に響かない。
これは一つの真理である。

しかし、これだけが正しいとなると、不都合が生じる。
一流アスリートのコーチは、選手よりも運動が得意とは限らない。
体操金メダリストの内村選手と同じレベルの技を、コーチが見せてやることはできない。
それでも、選手の動きを見て、的確な指導をすることができるのがコーチである。

同様に考えると、教師ができないからといって、教えられないという訳でもない。
そこに正しい理論や理念があれば、自分ができなくても教えられる。
その際、うわべだけの理解では、教えられないし伝わらない。
だから、道徳の授業では、教師が感動した資料の方が良い。

自分の失敗談。
一時期、本やインターネット、セミナー等で力のある資料をとにかく集めた。
片っ端からやってみた。
自分の感動を伴わない場合も、いいと思ったらやってみた。
素晴らしい人物の生き方を示し、「かくあるべし」という感じである。
それで、実際子どもがどうなかったというと、どうにもならない。
「努力が大切」とわかっても、努力するようになるものでもない。
それは、一つの価値を教えたにすぎない。
価値観が変わるには至らなかったということである。
今思えば、せめて下手に自分の講釈をいれないで「読むだけ」にしておけば良かったと反省である。

私は、野口芳宏先生の「人間は無限多面体」という考え方に共感している。
ある面からみると立派な人に見えるが、違う面も無限にある。
例えばすごい人だが、ある面だとかなりだらしない、ということがあったりする。
しかし、それがダメかというとそうでもなく、意外とそういう人間くさい人に、人は集まる。
そこに甘えてはいけないが、完璧な人間などいない。
「努力が大切」とわかって教えていても、さぼりたくなるのが人間である。
そこを克己心でもって成し遂げるのが、偉人の生き方なのだと思う。

結論。
自分ができないことでも、良いことなら教えた方がよい。
ただ、特に道徳においてのその場合は「自分も修行中です」というスタンスで、共にがんばろうという形で教える。
教師よりその一面において優れた人格を持つ子どもなど、ざらにいる。
(いや、ほとんどがそうかもしれない。)

教えることを躊躇せず、かつ「畏れ」は持って教育にあたりたい。

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