前号の道徳の授業の話の続き。
自分が感動した資料でないと、授業が空々しくなる。
自分がやったりできたりしていないことは、心に響かない。
これは一つの真理である。
しかし、これだけが正しいとなると、不都合が生じる。
一流アスリートのコーチは、選手よりも運動が得意とは限らない。
体操金メダリストの内村選手と同じレベルの技を、コーチが見せてやることはできない。
それでも、選手の動きを見て、的確な指導をすることができるのがコーチである。
同様に考えると、教師ができないからといって、教えられないという訳でもない。
そこに正しい理論や理念があれば、自分ができなくても教えられる。
その際、うわべだけの理解では、教えられないし伝わらない。
だから、道徳の授業では、教師が感動した資料の方が良い。
自分の失敗談。
一時期、本やインターネット、セミナー等で力のある資料をとにかく集めた。
片っ端からやってみた。
自分の感動を伴わない場合も、いいと思ったらやってみた。
素晴らしい人物の生き方を示し、「かくあるべし」という感じである。
それで、実際子どもがどうなかったというと、どうにもならない。
「努力が大切」とわかっても、努力するようになるものでもない。
それは、一つの価値を教えたにすぎない。
価値観が変わるには至らなかったということである。
今思えば、せめて下手に自分の講釈をいれないで「読むだけ」にしておけば良かったと反省である。
私は、野口芳宏先生の「人間は無限多面体」という考え方に共感している。
ある面からみると立派な人に見えるが、違う面も無限にある。
例えばすごい人だが、ある面だとかなりだらしない、ということがあったりする。
しかし、それがダメかというとそうでもなく、意外とそういう人間くさい人に、人は集まる。
そこに甘えてはいけないが、完璧な人間などいない。
「努力が大切」とわかって教えていても、さぼりたくなるのが人間である。
そこを克己心でもって成し遂げるのが、偉人の生き方なのだと思う。
結論。
自分ができないことでも、良いことなら教えた方がよい。
ただ、特に道徳においてのその場合は「自分も修行中です」というスタンスで、共にがんばろうという形で教える。
教師よりその一面において優れた人格を持つ子どもなど、ざらにいる。
(いや、ほとんどがそうかもしれない。)
教えることを躊躇せず、かつ「畏れ」は持って教育にあたりたい。
2014年3月13日木曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿