「成長とは、当たり前のレベルを変えること。」
「教育の鉄人」こと、杉渕鉄良先生のメルマガ上で発見した言葉である。
加えて次のような話があった。
例えば、算数のテストで、全ての問いの解法を説明できることを目指すとする。
そうすると、「テストで100点」は目標ではなく前提となる。
(そもそも普通はそこに行き着くのが大変なのだが)それは「当たり前」。
つまり、指導者側の意識レベルが、全く違う。
以前、山口県の福山憲市先生の「算数の市販テスト平均99点」というのを紹介した。
こちらも同様である。
このお二人の対談講座を聴く機会があり、福山先生は次のような話をしていた。
100点は、当たり前。
そこを目指しているのではなく、結果的にそうなっただけとのこと。
目指すものからすれば、「平均100点」で然るべきなのにという話だった。
二人の先生の共通点がある。
100点の遙か上を目指して指導している。
かなり「非凡」なことも、二人にとっては「平凡」。
これは、算数に限ったことではない。
あらゆることに応用して考える。
例えば、「たまには家事をがんばろう」と思ったとする。
(夏休みの記事に、そんなことを書いた覚えがあるが。)
そこで「自分の子どもの弁当作り」があったとする。
私のように、まともに弁当を作った経験がほとんど無い人間には、かなりの難題である。
加えて、自分が食べるならまだしも、子ども用。
やるとなればまさに「挑戦」である。
しかし、先に紹介した福山先生のように、毎朝自分の娘の弁当を作るのは当たり前の人もいる。
それは弁当作りが「挑戦」ではなく「習慣」となっている。
難なくこなせる。
この習慣形成がカギで、有名な森信三先生の躾の3原則も、これに当たると思う。
挨拶、返事、履き物を揃える。
この3つが当たり前になっていると、それ以前の部分がついてくる。
相手を尊重する態度、思い遣り、物事に丁寧に取り組む姿勢・・・
あらゆることが嫌でも一緒に身に付く。
「意識しなくてもできる」=「自然体」=「当たり前」になる。
結局は、どんな習慣が身に付いているかである。
子どもの指導にもいえるが、まずは主体変容。
自分自身の低い当たり前レベルを変えることから始めたい。
2014年3月24日月曜日
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