「認識」や「すれ違い」に対する気付き。
テクノロジーの発達で、音声認識システムの翻訳性能が飛躍的に高まってきた。
すぐに機械が他言語に翻訳してくれるというのは助かるが、意図が正しく伝わっているかは怪しい。
日本語と英語という二つの言語だけを比べてみても、文化が違えば言葉のニュアンスも大分違う。
「自由」は元々日本にはない概念である。
よって英語だとfreedomとlibertyという異なる概念だが、どちらも日本語では「自由」で表現される。
loveは愛と訳されるが、これもかなり両者のニュアンスが違う。
英語では趣味などで「○○が好き」にもloveが使用されるし、植物には水や光などの存在が「必要」という意味もある。
愛や自由、平和や平等などの概念に関するものは、特に翻訳が伝わりにくい。
互いの歴史的・文化的背景を知っていると、違いにも気付きやすい。
多様性の尊重や理解ということには、こういう面も含まれる。
基本的に、全ての人は互いに異文化育ちの存在である。
家庭生活においても、例えばタオルを家族共用するか個別にするかといった些細なことから違う。
ある家では何の問題もないことが、ある家では完全NGであることなどしばしばで、各家庭文化が異なる。
当然、家庭教育で何を重要視しているかも全く異なる。
そうなると、学校教育に期待するものも全く異なる。
(多分共通項でありそうなのは、元気に行って元気に帰ってきて欲しいというようなことぐらいである。)
新学期、新しい子どもとの出会いは、新しい家庭との出会いでもある。
子どもを伸ばすためにも、互いを尊重し合える関係を作っていきたい。
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