2021年4月22日木曜日

ルールが正義を規定する

 学級担任を何年やっていても常に考えるのが、ルールの重要性についてである。


ルールは、嫌がられる。

新しいルールが作られるとなると、さらに不自由に感じるようになる。


交通ルールが最もわかりやすいが、駐車禁止や速度制限というのは、自分の思うままに運転したい人にとって足かせのように見える。

しかしながら、これがない、もしくは緩いとなると、とても外を車で安全に走ることなど不可能である。

交通ルールがあるからこそ、多くの人が本当に自由に外を動き回れるともいえる。


例えば飛行場がノールールで航空管制官がいなかったら、恐ろしいことになる。

ルールに則って指示系統を司り、秩序を保っているといえる。


また、ルールを守るよう指導し、かつルールを破った場合の後の対応まで担保する存在も必須である。

社会だと、最終的には裁判官と弁護士の存在である。

これらの人々は「公平な正義」を司る。


その象徴として、裁判所の入り口に立つ女神像は、片手に剣、片手に天秤をもつ。

天秤で真理を求めてはかり、剣で審判をくだす。

私は実際に見たことがないが、弁護士バッジにも天秤が刻印されているという。


つまり、法(ルール)が正義を規定するといえる。

さらにそれは、場によって正義が変わるということでもある。


学校教育で考える。


学校というのは、かなり人が込み入った空間である。

価値観も考えも動きも異なる人たちの集まりである。

そこに一定の秩序をもたらす必要がある。

ルールがなければ、個人の正義が乱立してしまい、混乱するからである。


だから学校には、一定のルールがある。

ルールがあるということは、そこに正義が規定される。


学校ルールの大原則は、他者の権利を侵害しない範囲で個人を尊重することである。

互いの個人の自由が認められるということは、他人の自由を侵害するような行為は認められないということでもある。


言い換えれば、学校という集団社会の中では、


他人の権利を侵害しない義務 ≧ 個人の自由を尊重する権利


である。

そういうルール設定なっている以上、ここに正義がある。

他者の権利への適切な尊重が、自己の権利が尊重されることとつながっている。


「個別最適な学び」も、あくまでこの上でこそ成り立つ。

文科省の答申でも「個別最適な学びと,協働的な学びの実現」とわざわざ銘打っているぐらいである。

あくまで他者の存在を尊重する前提での個別最適な学びである。


見方を変えると、ルールそのものが不合理だと、規定される正義もおかしくなる。

今話題になっている校則問題などは、大抵はルールそのものが不合理なのである。

ルール自体が、他人の権利を侵害しない義務という大原則に則っていないのである。


ルールが正義を規定するのだから、ルールそのものの検討が必要になる。

ルールを鵜呑みにして従うのがよくないというのは、そういう点にある。


学校ならば、先の大原則に従ったルールになっているかをよく見る。

「廊下を走らない」などは、その点で意外と理にかなっている。

大抵の場合、

誰もが安全・安心に廊下を移動できる≧私が急いでいるから走りたい 

だからである。


一方で、廊下の歩行なぞ、本来はルールというより、暗黙の了解で済む程度のものでもある。

(ただし、完全に守られることは決してない。そして、恐らく完全になくなることもない。)


制服問題などは、この点から検討すべき類のものである。

そのルールが、他人の権利を侵害していないかと考えた時、運営側の都合が優先されるべきか、生徒の側に立つべきかということである。


ルールを鵜呑みにしないというのは、ここへの検討もなく、ただ従うから言われることである。

ルールが正義を規定する以上、ルールがおかしいと、そこから生み出される正義がおかしくなっているはずである。


ルールが正義を規定する。

あらゆるルールに対し、無暗に反抗するでもなく従うでもなく、目を見開いてその真理を見極めるようにしたい。

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