前号の続き。
文化の違いと正解の違いについて。
働く側が職場に対して求めることも異なる。
ある人は、自由に創造的に働けることを求める。
ある人は、やることが予めきちんと手順まで決まっていることを求める。
規律がきちんとしていて、定時に帰れることを求める人もいる。
規律等はゆるくても、とにかく各自のペースでのんびり働けることを求める人もいる。
学校という場で考えると、この辺りの認識のズレが苦しみの根源になりやすい。
部活動問題など最もわかりやすいが、土日も積極的にやりたい人と、全くやりたくない人が混在する。
家庭と子どもの側からすると、土日も部活をやってくれることは嬉しい、助かるという声もある。
そして逆の声も、もちろんある。
育った文化が違えば、「正解」「正義」は異なる。
つまり、完全オーダーメイドの提供は無理である。
オーダーメイドとは、サッカーで例えるならば、とにかく自分が走り込んだところにボールを出せという要望になる。
私ではなく公の場である以上、どこか「適」と考えられる場を「落としどころ」としてある程度合わせる必要がある。
教室という場に絞ると、受ける側の要望と授業内容というのは、大抵の場合完全一致しない。
本当にそれを学びたくて授業を受けている学生がいるかと思えば、ただ履修単位が欲しいだけという人もいる。
小学校や中学校でもそれは同じで、本当に学ぶのが楽しい子どもと、ただ時間が過ぎ去るのを待つ子どもである。
どちらが正しい、間違っているという訳ではない。
ただ、ニーズが違うだけである。
さらにややこしいことに、教室ではこの両者だけではない。
教師の側には学校(さらには委員会や文科省)としての要望が乗っており、学生や児童・生徒の側には、保護者の要望も乗ってくる。
言うなれば「上からの要望」であり、これを無視することはできない。
だからそれぞれの教室内での「本当はこうしたい」が通用しない。
落としどころを探すのは、さらに難しいことになる。
そう考えると、やはり集団には目的や理念の共有が必要である。
関わる個人の全ての要望に配慮すると、解が出ない。
「ここが柱」ということがはっきりしていれば、とりあえず全員そこに立ち返って考えることができる。
学校であれば、学校の教育理念やルールである。
教室であれば、学級開きでの所信表明や学級目標、全員で共通理解して作ったルールである。
ここで目的や理念だけでなく、ルールを挙げたことに意味がある。
一定のルールがないと、集団の維持は不可能である。
先に述べたように、集団成員の各人の文化が全く違うからである。
共通理解事項として「集団としてのとりあえずの正解」を共通認識しておく必要がある。
認識違いやすれ違いは、ここの理解不足から生じる。
自分は相手を理解できていない、相手の正解が自分の不正解かもという前提に立つ必要がある。
「わかっているはず」「こうしてくれるはず」という自分本位の期待が、失望や怒りを引き起こす。
例えば本来自由な存在である子どもが、期待通りに動いてくれることなどまずない。
大人同士も然りである。
思うように相手が動いてくれている、黙ってくれているとしたら、自分を抑えて合わせてくれているだけかもしれない。
自分自身を振り返ってみても、合わせている面もあるが、周りに合わせてもらっていることだらけである。
いつでも「お互い様」という気持ちを忘れないようにしたい。
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