2021年4月24日土曜日

教えるべきか任せてやらせるべきか議論

 先月の学級経営学習会で話した内容のシェア。


「教えるが先か、やらせてみるが先か」

ということが話題に上がった。


これは、ニワトリが先か卵が先かという話でもある。


結論、時と場合による。

極端な話、全く字が読めない状態で教材文を与えても、読めない。

一方、パソコンや運動のように、体験した方がてっとり早いものもある。


少なくとも、力量に自信がない内は、「まずきちんと教える」が基本になる。

フリーに動いている状態を掌握していく方が、より難しいからである。


そしてこれが大事なのだが、両者は往還であるということ。


教えてもらってばかりでは主体性が育たない。

一方で、自分たちでやっているばかりでも上達しない。


あることができるようになる。

また教える。

教わった方法でまたできる。

これをひたすら繰り返していくと「教えないとできない・やらない」という状態になる。


あることについて、自分たちで試してみる。

最初はうまくいかないが、試行錯誤している内に、ある程度できるようになる。

それで良いのだと満足する。

レベルが低いままで止まる。


つまり、指導者には「教え導く」役割と「壁」の役割の両方が求められる。


くじけないように励ましながら、教えてあげる時がある。

基本的に、自力で何とかならない時である。


一方、壁となって立ちはだかる時がある。

今のレベルで満足させない。

「もっと上がある」「その程度ではOKを出さない」ということを見せるべき時である。


学級活動の場合を例に挙げる。


例えば、子どもが学級お楽しみ会のようなイベントを企画する。


最初は、会の大体の型を示して教えてもよい。

そもそもそういう経験が全くない集団にとっては、そういう会を企画すること自体、思いつきもしないからである。


最初に教えてあげた時は、うまくいく。

司会もある程度手伝ってあげればよい。

まず「こういう感じ」をおさえる。


次に、子どもたちに委ねていく。

すると、あまりスムーズに進行しない。

失敗もする。

そこで初めて「次はどうしたらうまくいくか」

を考えだす。


リトライすると、今度は結構うまくいく。

満足する。

そこで、「実はこういうことをやることもできる」と、新たに課題を出す。


次にやってみると、またうまくいかないが、リトライする。


この繰り返しである。


やがて、こちらが課題を出さなくても、自分たちで発見するようになる。

そうなれば、もう時と場だけ与えて見守るだけでも、どんどんレベルアップしていく。

A.I.のシンギュラリティはそう簡単にはこないようだが、人間には自らを高める能力が生来ある。


今、学校教育は「子どもに委ねる」が主流である。

しかしながら、それは指導が不要という訳では決してない。

高みを目指す過程の中で、委ねる場面と教える場面があるというだけである。


流行に流されて、どちらか一方に偏ることのないようにしたい。

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