先月の学級経営学習会で話した内容のシェア。
「教えるが先か、やらせてみるが先か」
ということが話題に上がった。
これは、ニワトリが先か卵が先かという話でもある。
結論、時と場合による。
極端な話、全く字が読めない状態で教材文を与えても、読めない。
一方、パソコンや運動のように、体験した方がてっとり早いものもある。
少なくとも、力量に自信がない内は、「まずきちんと教える」が基本になる。
フリーに動いている状態を掌握していく方が、より難しいからである。
そしてこれが大事なのだが、両者は往還であるということ。
教えてもらってばかりでは主体性が育たない。
一方で、自分たちでやっているばかりでも上達しない。
あることができるようになる。
また教える。
教わった方法でまたできる。
これをひたすら繰り返していくと「教えないとできない・やらない」という状態になる。
あることについて、自分たちで試してみる。
最初はうまくいかないが、試行錯誤している内に、ある程度できるようになる。
それで良いのだと満足する。
レベルが低いままで止まる。
つまり、指導者には「教え導く」役割と「壁」の役割の両方が求められる。
くじけないように励ましながら、教えてあげる時がある。
基本的に、自力で何とかならない時である。
一方、壁となって立ちはだかる時がある。
今のレベルで満足させない。
「もっと上がある」「その程度ではOKを出さない」ということを見せるべき時である。
学級活動の場合を例に挙げる。
例えば、子どもが学級お楽しみ会のようなイベントを企画する。
最初は、会の大体の型を示して教えてもよい。
そもそもそういう経験が全くない集団にとっては、そういう会を企画すること自体、思いつきもしないからである。
最初に教えてあげた時は、うまくいく。
司会もある程度手伝ってあげればよい。
まず「こういう感じ」をおさえる。
次に、子どもたちに委ねていく。
すると、あまりスムーズに進行しない。
失敗もする。
そこで初めて「次はどうしたらうまくいくか」
を考えだす。
リトライすると、今度は結構うまくいく。
満足する。
そこで、「実はこういうことをやることもできる」と、新たに課題を出す。
次にやってみると、またうまくいかないが、リトライする。
この繰り返しである。
やがて、こちらが課題を出さなくても、自分たちで発見するようになる。
そうなれば、もう時と場だけ与えて見守るだけでも、どんどんレベルアップしていく。
A.I.のシンギュラリティはそう簡単にはこないようだが、人間には自らを高める能力が生来ある。
今、学校教育は「子どもに委ねる」が主流である。
しかしながら、それは指導が不要という訳では決してない。
高みを目指す過程の中で、委ねる場面と教える場面があるというだけである。
流行に流されて、どちらか一方に偏ることのないようにしたい。
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