2020年10月6日火曜日

正解主義が意見の出なくなる原因

 学級会、あるいは授業で、意見が出ない。

この根本的原因を考える。


一般的に、低学年はどんどん意見を言う。

相当に変な意見やまとまらないものも含まれるが、とにかくどんどん言う。

それが、高学年に近づくにしたがって、減ってくる。


まずここの理由の一つは、節度である。

敢えて自分が言わずとも、周りが言うとわかっている場合、言わなくなるという面がある。

話合いを円滑に進める上で、これはこれで必要である。


もう一つの理由が問題で、正解主義の空気である。

これは、作りたくなくても、よほど意識していないと、自然にできていってしまう。

正しい意見が優先的に賞賛されるようだと、人は自信がなくなって、言わなくなる。


一番わかりやすいのは、正解がはっきりとわかりやすいもので、教科でいえば算数である。

算数では答えが一つである。

したがって、知識・技能面では評価もしやすい。

しかし本当に評価すべきは、考え方、道筋の方である。


最も意見が言いやすいのは、はっきりとした正解がないものである。

例えば、道徳では話合いの柱となる価値項目はあれど「正解」は一つにならない。

価値観の多様性を学ぶ場だといえる。


授業者が、日常的に何を評価しているかである。

正解を尊重して取り上げているばかりなら、正解主義になる。

多様な意見を取り上げて尊重しているようなら、意見は出やすくなる。


特に、誤答と思われるものや、他とは変わった考えに価値を置いて評価する。

真剣に言ったのであれば、一風変わった意見でも検討する。


この「真剣に」の部分は大切である。

明らかにふざけただけの意見や悪意のある意見と、真剣に言った意見とは、明確に区別する力量が必要である。

そこを平等に扱うのは、悪平等である。

「自由に意見を言い合える」というのには、その土台にみんなでよりよくなろうという気風があることが大前提である。


そして大人社会を見るとわかるが、変に学識が高い人がいる場合、意見がしにくくなることがある。

学識の高い人の中には自分が「正解」だと思っており、心のどこかで見下す傾向のある人がいる。

そこに自分の知見の低さを指摘されるのが嫌だからである。

当然の心理である。

つまり、メンバーに皮肉屋(ニヒリスト)がいると、発言は一気にしにくくなる。

全体の利益を考えると、ここはリーダーが制していく必要がある。


自由に意見を言い合える場というのは、その点で平等でなくてはならない。

知識は平等でなくてもいい。

知識があろうがなかろうが、発言の機会が出席者全員に保証され、真剣に発せられた個々のどんな意見も尊重される。

その点においての平等こそが重要である。


職員会議などであれば、管理職やベテラン教員が、どれぐらい新卒や若い先生方の意見を真剣に受け止めて尊重するかである。

例え知見の浅いものであっても、その思い自体は受け止めて、採用できない理由を真摯に説明した上で、議論を進める。

「市井の声をきく」という姿勢が、どの時代でもよきリーダーと呼ばれる人物に求められる所以でもある。


正解主義の空気をどう変えていくか。

ここに現代の日本の教育の、抜本的に改革すべき根幹があるように思える。

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