子どもは大事にすべきである。
「児童の権利に関する条約」は、ちょうど30年前の9月2日に発効された。
世界では、長らく子どもは大人の下の劣等なものとして扱われてきた。
つまり「この子どもを大事にする」というのは、比較的最近の考え方である。
今、女性差別や人種差別を口にすれば、たちまち袋叩きにあう。
子どもの権利も、近代に入ってからのスタンダードである。
そういう意味では、世界は良くなってきているのではないかと思う。
さて、問題はこの「子どもを大事にする」ということを、教育で行う時である。
保護するという面はもちろんあるのだが、教育においては育てる、鍛える、伸ばすといった視点が必要になる。
(保護が優先的に必要なのは、様々な事情で劣悪な環境下に置かれている不幸な子どもたちである。)
子どもが転んだ。
大声をあげて泣いている。
その子どもを抱き起こして「痛かったね」という。
これは、子どもを保護するという視点からは、正解である。
確かに、大事にしているといえる。
しかしながら、教育においては、この反応は必ずしも正解ではない。
子どもが転んだ。
泣いている。
しかし、しばらく黙って見守ってみる。
自分で立ち上がる。
「よく自分で立ったね」と認めて、軽く砂をはたいてあげる。
この場合は、ほめてあげてもいい。
子どもは涙が乾ききらない目で「うん!」と精一杯の返事をする。
しばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。
今度は、泣かない。
むくりと立つ。
「おお、平気なの?」と聞いてみる。
「うん!」と力強く返事し、膝の砂をぱっぱと払って、また遊び出す。
またしばらくして、次も、同じ子どもが転ぶ。
転んだことも気にならないぐらいにすぐ立ち上がって、また走り出す。
こちらが声をかける暇もない。
子どもを鍛え育てるという、ごく単純化した縮図的な例が、これである。
これは、大人からすると、少し寂しいぐらいである。
どんどん、自分を必要としなくなっていくからである。
しかし、これが教育である。
子どもが自分自身で生きていく力強さを身に付けさせるのが、教育である。
師の野口芳宏先生の言葉の中に、次のものがある。
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
(『心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道』 さくら社
より引用)
子どもを大事にしているからこその言葉である。
子どもを、なめていない。
厳しい困難を乗り越えられる力強い存在、自ら伸びようとする存在という子ども観がないと、何でも保護の方向になってしまう。
何でも甘やかして保護の方向は楽だし、大人の側の自己有能感を味わえるので、中毒になりやすい。
(ちなみに、管理や指示が細かいのも、甘やかしと同じくロボット教育の方向である。子どもを常に命令で動かせる。)
子どもは大事にすべきである。
それは言い換えれば、子どもを決して甘やかさないということ。
それを乗り越えられる子どもには、少し高い壁を提示することである。
転んでも、自ら立ち上がる力のある者に、力強くエンパワメントしていくことである。
それは、実は大人の側にも痛みを伴う行為である。
厳しすぎる、口うるさいと避けられたり、反抗されたり、非難されることもある。
それは、必要な痛みである。
何なら甘ったれには、もっと褒めて欲しいと言われたり、優しさが足りないなどと言われることもあるかもしれない。
はっきり言おう。
褒めないのは、褒めるに値しない程度のことだからということ、あるいは、あなたが褒める必要のない相手だからである。
もっと心底弱っていて、どうしようもない状態なら、きっと褒めてあげるし、もっと優しくしてあげるのである。
「あなたはもっとできる人」「強くなれる人」だから、褒めないのである。
大人の側が逃げてしまっては、子どもの側が育ちようがない。
真意がわかってもらえるのが、すぐの時もあれば、10年、20年後のこともある。
一生、わかってもらえないことだってある。
それでも覚悟して、やる。
「それは認められない」と、はっきり言う。
「自分でやりなさい」と、はっきり突き放す。
教育において、肯定と同じぐらい、否定は重要な要素である。
心身共に健全な相手であれば、否定も立派な教育として成り立つ。
(ただし、部分否定であること。「あなたはダメな人間だ」というような全否定は、非教育的である。)
今しているその行為は、誰のためなのか。
真の意味で、子どもを大事にしていきたい。
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