一年生は、基本的に素直である。
どれくらい素直かというと、こちらが間違っていても全て受け入れてくれるほど素直である。
つまり、素直な子どもばかりが相手だと、自分の過ちに気付けない可能性がある。
一方で、自分の「常識」が通用しない相手も、ちゃんと現れる。
そんなこと言っちゃダメでしょ、ということも平気で口に出す。
空気とかは読まない。
王様が裸だと平気で真実を言ってしまうぐらい、素直である。
これらの子どもは、大人の常識が通用しない。
よって、あまり言うことをきかない。
何度言っても同じことを繰り返す。
丁寧に教えてもわからない。
理解不能な言動をとる。
ちなみに、こちらが
「何度言ったらわかるの!」
「どうしてわからないの!?」
「○○って言ってるでしょ!」
等の台詞を口にしてしまったら、それが彼等への敗北宣言である。
再三述べているが、これらの子どもこそが「神様」である。
そして一方で、言うことをきいてくれる有難い子どもたちは、未熟な自分をサポートし、ケアしてくれているのである。
大体、自分の常識など、あてになったものではない。
やんちゃな神様は、そこに気付かせてくれているのである。
教えてわからないなら、自分の教え方が下手なのか、相手の発達段階に内容自体が合っていないのである。
(大抵、前者を疑う方がよい。)
気付けるようになるには、こちらも素直になるしかない。
痛くてもなんでも、傷口に文句垂れても仕方がない。
治すのに専念すべきである。
どうやればいいのかという方法自体は、教育書や心理学の本に溢れている。
しかし、どんなに素晴らしい本を読もうが話をしようか、本人が変わろうとしなければ何も変わらない。
誰しも「デモダッテ星人」を相手にしている時間が最も無駄である。
素直さを学ぶ。
そのために、目の前の子どもは最高の教師であり、神様である。
2019年1月9日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿