2019年1月19日土曜日

荒れる大人にも受けの美学

成人の日と関連して、「受けの美学」の話。

全国各地で成人式が開かれた。
大人になったことを祝う日である。

大人になるとは、自分で責任がとれるようになるということ。
大人になるとは、与える人の側に回るということ。

喜ばしいことである。
歓迎である。

再三述べているように、ごく一部の新成人が荒れるのは、わざわさメディアが騒いであげるからである。
大人が甘やかしているのである。
騒ぐエサをあげているともいえる。

渋谷のハロウィン騒ぎと全く同質である。
「ダメでしょ」と口だけ注意して、心の底で大人たちが面白がっているからである。
(学校現場でも見受けられる。注意するなら本気でしないと逆効果である。)

大人がそういう形でしか騒げないのはなぜか。
心が満たされていないからである。
幼少期からの表現欲求と自己承認欲求が満たされていない。
要は、受けてもらえなかった負債である。

攻撃を受けてもらえれば、信頼感が生まれる。
受けてもらってばかりで相手に申し訳ないなという思いも抱く。
相手の攻撃も受けないといけないなと思う。
そうすると、遠慮も生まれ、変な荒れの形では出てこない。

毒出しである。
作用反作用の法則、正負の法則により、負は必然である。

受けるとは、心配することではない。
そういうもの、と認めることである。
ちょっと傷付くし自分は違う考えだけど、あなたはそう考えてるのね、と認めることである。

ごく一部の新成人の荒れも、受けないといけない。
その地域の教育の負債の返済なのである。
家庭教育はもちろんだが、学校は何かしら彼ら、彼女らに関わったはずである。
責任をもって、甘んじて受けるしかない。

それをわざわざ報道しなくていい。
あらゆる事件と同じで、悲劇を知ったところでどうにもできない。
ワイドショー的に見世物になるだけである。
教育の被害者たちを見世物にすべきではない。

ハレの日のスポットライトは、正しい姿に向けるべきである。
今年こそは、あの手の報道がどこの放送局でも流れないことを期待したい。
悪いところにわざわざ目を向けるのは、愚か者のすることである。

私がかつて教えた子どもたちも、新成人となった。
素敵に輝く新成人たちを心から歓迎したい。

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