成人の日と関連して、「受けの美学」の話。
全国各地で成人式が開かれた。
大人になったことを祝う日である。
大人になるとは、自分で責任がとれるようになるということ。
大人になるとは、与える人の側に回るということ。
喜ばしいことである。
歓迎である。
再三述べているように、ごく一部の新成人が荒れるのは、わざわさメディアが騒いであげるからである。
大人が甘やかしているのである。
騒ぐエサをあげているともいえる。
渋谷のハロウィン騒ぎと全く同質である。
「ダメでしょ」と口だけ注意して、心の底で大人たちが面白がっているからである。
(学校現場でも見受けられる。注意するなら本気でしないと逆効果である。)
大人がそういう形でしか騒げないのはなぜか。
心が満たされていないからである。
幼少期からの表現欲求と自己承認欲求が満たされていない。
要は、受けてもらえなかった負債である。
攻撃を受けてもらえれば、信頼感が生まれる。
受けてもらってばかりで相手に申し訳ないなという思いも抱く。
相手の攻撃も受けないといけないなと思う。
そうすると、遠慮も生まれ、変な荒れの形では出てこない。
毒出しである。
作用反作用の法則、正負の法則により、負は必然である。
受けるとは、心配することではない。
そういうもの、と認めることである。
ちょっと傷付くし自分は違う考えだけど、あなたはそう考えてるのね、と認めることである。
ごく一部の新成人の荒れも、受けないといけない。
その地域の教育の負債の返済なのである。
家庭教育はもちろんだが、学校は何かしら彼ら、彼女らに関わったはずである。
責任をもって、甘んじて受けるしかない。
それをわざわざ報道しなくていい。
あらゆる事件と同じで、悲劇を知ったところでどうにもできない。
ワイドショー的に見世物になるだけである。
教育の被害者たちを見世物にすべきではない。
ハレの日のスポットライトは、正しい姿に向けるべきである。
今年こそは、あの手の報道がどこの放送局でも流れないことを期待したい。
悪いところにわざわざ目を向けるのは、愚か者のすることである。
私がかつて教えた子どもたちも、新成人となった。
素敵に輝く新成人たちを心から歓迎したい。
2019年1月19日土曜日
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