師の野口芳宏先生からの学び。
次の言葉を教えていただいた。
本物は、皆に福を分かつ。
解説不要なほどシンプルで、納得の言葉である。
逆にいえば、皆に福を分けないようなものは、本物とは言えないということである。
ここ数回で伝えてきた内容を総括するような言葉である。
本物の人物なら、周りの人を幸せにする。
一流は本物であるから、皆を幸せにしているはずである。
広く世に貢献しているから一流なのである。
今、自分が一所懸命にがんばっていることを考える。
それは、皆に福を分かつ結果になっているか。
それを基準に考えれば、それが本物かどうかわかる。
人を騙して儲けたり得したりすることは、偽物である。
誇大広告や嘘も同様。
人を不幸にするからである。
人を感動させるサービスや品物は、本物である。
サプライズや温かな態度、誠実な謝罪も同様。
人を幸せにしているからである。
SNSの投稿などでも、これを基準に見ることができる。
それが皆に福を「シェア」するためのものなのか。
それとも、単に投稿者が「いいね!」といってもらって、自己顕示欲を満たすためだけのものなのか。
この違いは月とすっぽんどころか、天と地、フロッピーディスクとクラウドぐらい違う。
教育実践でいうと、何十年経っても残っている実践は、本物である。
時代の裁きを受けてなお残ったものだからである。
(この言葉も、野口先生からかつて聞いた言葉である。)
今やっていることが三十年先でも残るようなら、本物である。
そう考えると、学級担任や各種コーチの仕事の意味は重い。
その子どもの人生を変える可能性がある。
一方、多くの教育研究に対しては、労力に対してそこまでの深みを持たせられているか、甚だ疑問が残る面でもある。
本物なら、今やっていることがこの先ずっと残る、あるいは影響を与えるはずである。
いかがであろうか。
それは、皆に福を分かつ結果になっているか。
独りよがりになっていないか。
自省の際に有用な視点である。
2019年1月25日金曜日
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