2019年1月21日月曜日

心配の種を堀り起こして見る

前々回の続き。
心配しすぎについて。

「子どもの成長を確実に阻害する方法」の記事には反響があった。
「心配しすぎ」は、多くの親や教師が抱える課題であるようだ。

ところで、「心配しすぎるな」と言われても、心配してしまうのが人間である。
「親だから心配して当たり前だ」という声も聞こえそうである。

この「〇〇だから△△して当たり前」が出た時は、要注意サインである。
「当たり前」の前提を見直せというサインである。

そもそも、なぜ心配しすぎてしまうのか。
心配は、感情である。
感情には、目的がある。
願いがある。
その願いを深堀りしていって、気付くことで手放すことができる。
心配の種を堀り起こして見る作業が必要である。

子どもが失敗することに、一体何が心配なのか。

例えば、四月に一年生となった我が子が一人で通学することになった時。
心配である。
迷子になるのではないか、交通事故に遭うのではないか。
つまり、命が心配なのである。
これはある程度、妥当な心配といえる。
しかし、心配するよりも一緒に通学路を歩く練習をするなど、対策を立てる方が現実的である。
心配は、準備不足によっても起こるからである。

では、子どもの忘れ物を届けることはどうか。
忘れたままだと、何が心配なのか。
子どもが困ることである。
これは、困らせておけばよい。
体操服を忘れても、命に別状はない。
見学する中で自然に反省して、次に気を付けるようにすればいいことである。
繰り返すようなら、声かけなどのサポートは必要であるが、毎度届けているといつまでも成長しない。

木登りはどうか。
落下によるケガの心配である。
これは、再三言っているが、早めに小さなケガをした方がいい。
後々で大けがをする確率が低くなる。
一度もまともに転んだことのない子どもが、大きくなってから一番怖いのである。
(肉体面だけでなく、精神面でもいえる。)

全く別の視点で、「保身」がある。
つまり、周りから立派な親(あるいは立派な教師)であると見てもらいたいという思い。
これは、正直、いらない。
即捨てた方がいい心配である。
「そうはいっても」と思うかもしれないが、誠実な教師なら、少なくとも子どもの失敗で親を責めたりはしない。
たとえ言われても、「いつもすみません」と誠実に対応すればいいだけの話である。
(親から教師の場合にもいえる。)

まとめると、基本的に心配は「安全」のサインである。
つまり、現状維持、生命維持のための本能である。

そして成長とは、安全領域から出ること。
有名な脳科学者の茂木健一郎氏も言っているが、安全地帯・快適地帯(コンフォートゾーン)にいる以上、成長はない。
脳は、刺激を受けないと成長しないし、安全地帯から出ないと進化しないのである。
大人にも子どもにもいえることである。

心配しすぎは、子どもの成長を阻害する。
心配しすぎることによって、子どもは安全地帯を出られなくなる。
その心配の真の願いは、子どもに健やかに育って欲しいという願いのはずである。
心配の奥深くの願いを掘り下げれば、心配を手放せること請け合いである。

もっと子どもを信じよう。
自分自信も信じよう。
そんな大人に見守られていたら、子どもも自信をもって生きられるようになるはずである。

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