アクティブ・ラーニングの具体を考える。
仮に、子どもが能動態でかつ協同的に学んでいることを必要条件とする。
世の解釈が揺れているため、十分条件はここでは定義しない。
では、例えば、算数の授業で考える。
学習問題を子どもが見出して、解決の方法を自力で考え、さらに意見を比較検討してみる。
みんなであれこれ考えて、様々な方法で正解に辿り着けた授業があったとする。
授業も「活気に満ちて」いて、「協同的な関わり」も随所に見られた。
これなら、アクティブ・ラーニングの授業といえるか。
これは、正直、これだけの情報では、わからない。
なぜなら、全体の「内訳」を見て、さらに子ども一人一人に対して見てみないとわからないからである。
能動態でやる気を出していたのは40人中30人だとする。
これぐらいの状態だと『「みんな」やる気がある授業でした』という印象を持ちやすい。
実際、必要条件を満たしているのは30人で、残り10人は満たしていない。
更に発表をしたのは、10人であるとする。(ちなみにこの10人は全員が能動態の30人とも限らない。)
残り30人の動きが気になる。
また、その10人の考えがそれぞれどこから来たのかも気になる。
4人の班であっても、完全に1人で考え出したものかもしれない。
または、事前知識があって発表しただけかもしれない。
もっと言うと、この例だと教師の動きが不明である。
授業である以上、子どもを高みに導く働きかけが欲しい。
「教師がいなくても大丈夫な状態」を子どもには求めつつ、実際には指導する。
アクティブ・ラーニングの「授業」に対して考えているのであるなら、教師の動きは必ず問題になる。
現在、有効な働きかけや関わり方を探っている段階である。
以上、くどくど述べたが、自分の結論としては、次のような解釈である。
『「これをしたからアクティブ・ラーニングの授業ですよ」ということは、ない。』
要は、アクティブ・ラーニングとは、方法論ではなく、状態を指すと考える。
〇〇をすればアクティブ・ラーニングで、××だとアクティブ・ラーニングではない、という単純な性質のものではないと考える。
今、様々な場での取り組み、提案がなされているので、これからの動きに注目していきたい。
2015年11月2日月曜日
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